始めに
始めに
最近『BORUTO』(『NARUTO』の続編)で「逆だったかもしれねえ」が起こり、ナルトスに衝撃が走っています。毎朝楽しみに観ていたアニメもそのうち二期が始まるようです。『NARUTO』といえば「転生」がテーマです。
そこで、今日は「転生」をテーマにする『豊饒の海』シリーズ(1.2.3.4)の『奔馬』について『NARUTO 』ファンの視点からレビューを書いていきます。
語りの構造、背景知識
転生(『浜松中納言物語』)のモチーフ
三島由紀夫は転生の主題に取り憑かれておりました。三島のフォロワーのモダニスト・中上健次『千年の愉楽』にも、転生のモチーフは見えます。サリンジャー『ナイン=ストーリーズ』にも転生のテーマはあります。この主題が、文学者や人の心を捉えるのはなぜでしょうか。
そもそも本作品は『浜松中納言物語』と言う転生をモチーフにする古典文学を下敷きにしており、四部作(1.2.3.4)で転生者をテーマとする作品になっています。そして仏教思想が背景になっています。
モダニズムと輪廻
T=S=エリオット『荒地』の下敷きとなった文化人類学者フレイザー『金枝篇』が、ネミの森の王殺しの儀式の伝統に対して、自然の象徴である森の王が衰弱する前に殺すことで、自然の輪廻と転生のサイクルを維持するためだという解釈を与えています。ここから以降のモダニズム文学に輪廻と転生のモチーフが現れるようになりました。
たとえばサリンジャー『ナイン=ストーリーズ』などにもその影響が伺えます。中上健次『千年の愉楽』、三島『豊饒の海』シリーズ(1.2.3.4)、押井守監督『スカイ・クロラ』などにも、モダニズムの余波としての転生モチーフが見えます。
また三島由紀夫には郡虎彦を経由してニーチェからの影響があり、ニーチェの永劫回帰も、宿命論的な時間論で、時間軸の中での宿命の輪廻を提唱し、本作の背景になっています。
シリーズの変遷
四部作(1.2.3.4)の主人公は松枝清顕と、その親友の本多繁邦と言えます。
松枝侯爵の令息である松枝清顕は、綾倉聡子と不倫の恋をして、やがて二人の仲は引き裂かれ、失意の中で松枝清顕は死にます。この松枝清顕は死に際に転生を予告し、本多繁邦がその転生者らしき人物と四部作(1.2.3.4)ののちの作品では関わっていきます。
四部作(1.2.3.4)の最後に至っても転生者が現れたのかどうかは分からず、また綾倉聡子と誰かが結ばれることもありません。
またいつまでも清顕の青春の幻影を追い求め続けるまま時間ばかりを重ねてしまう展開や、視点人物の設定の仕方はフルニエ『モーヌの大将』を連想させます。
象徴的手法としての転生
三島由紀夫はモダニストとしてはあまり秀でたものではなく、どちらかというと新古典主義の枠でも私淑したラディゲ(『ドルジェル伯の舞踏会』『肉体の悪魔』)、コクトー(『恐るべき子供たち』)のようなクラシックなスタイルの娯楽小説、戯曲に秀でた守旧的な古典主義者でしたが、とはいえモダニストでもあります。T=S=エリオットやジョイス(『ユリシーズ』)、プルースト(『失われた時を求めて』)からの影響は顕著です。
エリオット『荒地』は当時のブルジョワ社会の頽落の象徴として聖杯の失われた時代の荒地を、ジョイス『ユリシーズ』は、現代の冴えない中年レオポルド=ブルームの物語をホメロス『オデュッセイア』の象徴として解釈、再現しています。ここに読者が想像力を喚起されるのは、抽象的なレベルの共通性によって二つの異なる事例が特定の共通のカテゴリーの中に発見されて示される機知へ感じる快楽ではないでしょうか。我々が普段の学習でも経験するような、異なる事象が構造的に捉えられることへの快感ではないでしょうか。
三島由紀夫もこうしたモダニズムの象徴的な手法に影響され、「転生」の主題によって異なる時間を生きる主人公の四部作のドラマをそれぞれの物語の象徴として捉える姿勢が見えます。
宿命論、自由の儚さの再現。崇高さ
三島由紀夫は郡虎彦経由で、ニーチェから顕著な影響を受けました。ニーチェといえば永劫回帰という、宿命論的な時間論の中に神秘性を見出す発想が特徴で、まあ現代ではこのような単一の時点(目的)を目指し直線的に展開されるような意味での決定論(宿命論)は物理学の方面では否定的な見解が強いです。けれどもラプラスの悪魔に惹かれたヴォネガット(『スローターハウス5』)のように、やはりこのような宿命論は人の心を捉えるものがあります。
この辺りのことを書くと収拾がつかなくなるのですが、けれどもデカルトが考えたような素朴な自由意志は現代では受けが悪く、認知科学、自然主義哲学の方面では、両立論(自由意志と決定論が両立する)や決定論(自由意志は存在しない)が主流です。両立論というのは直感的にわかりずらいと思いますが、古くはホッブス、スピノザ、現代思想ではドゥルーズなどで、自由意志は捉え方によってはあるとも言えるしないとも言える、という立場です。例えば両立論のデネットは環境の中に置かれたエージェントはその振る舞い、信念の形成に環境や内的メカニズムから影響される(決定論)が、主体性を持った一個のエージェントの自由はその態様の観察から一定程度存在する(自由意志)と言える、くらいに捉えます。村上春樹(『世界の終りとハードボイルド=ワンダーランド』)やヴォネガット(『スローターハウス5』)、サリンジャーの文学作品などがそうですが、宿命としての決定された過去が原因で心的外傷があってそれに決定づけられる形でエージェントの自律、自由が損耗している状態というのは、我々もまあまあ直感的に理解しやすいと思います。
三島由紀夫が宿命、運命悲劇として「転生」の中での「宿命」のドラマを描くとき、そこに感じ取られるのは、自然・災害・病気・寿命・死といった諸々の環境や自然法則を目の前にして我々がエージェントの自由意志の矮小さを思い知らされるような、そんな崇高さかも知れません。歴史という圧倒的なダイナミズムの前で、我々が生きるわずかな時間が思いやられる時に感じる崇高さであるのかも知れません。
リハーサル、「逆だったかもしれねえ」の再現
伊藤計劃『ハーモニー』『虐殺器官』に関する記事で触れましたが、人間は高次の表象能力をもとにシミュレーションを組み立て、公共圏における振る舞いや信念を調整、洗練させていきます。人間はたえざる内的リハーサルの中で、人間関係の中での責任主体としての姿勢をあらためていきます。
そんな我々ですが例えばシェイクスピア『ロミオとジュリエット』(山田風太郎『甲賀忍法帖』の元ネタでもあります)に我々が感じる美的経験というのは、そこで「ちょっとのボタンの掛け違いで大きく結果が変わっていたかも知れない」という作中の事実のうちに、我々が日常において経験する「もしあの時〜していたら/しなかったら〜だったかも知れない」という行為のリハーサルが発見されることに由来するのではないでしょうか。
もし、『NARUTO』においてオビトがカカシに与えた「仲間を大切にしない奴は、それ以上のクズだ」という言葉がなかったら、カカシはどうなっていたでしょうか。ナルトにイルカ先生がおらず、「どの道ろくなやつじゃねえんだ」と卑の意志の犠牲の犠牲になっていたら、ナルトは長門やオビト、サスケの責任を問いただす立場にいられたでしょうか。そんな「逆だったかも知れねえ」のうちに、我々は日常のリハーサルを見出せます。『NARUTO』はそうしたドラマを「転生」のモチーフと絡めて展開しています。
川端康成がノーベル文学賞を取ったのち、三島と川端は自殺しましたが、もしノーベル文学賞を取ったのが三島由紀夫だったらどうだったでしょうか。承認欲求を拗らせてノーベル賞に縋るより生きていけなかった三島は生き残り、かつての愛弟子からの呪詛の自殺で苛まれ続ける現実は川端にはなく、それゆえ自殺することもなかったかも知れません。
三島由紀夫が転生についての物語を書くとき、そこに我々が感じるのはちょっとボタンがかけ違っていれば同じエージェントでも別の現在があったかも知れないという作中の事実に見出せる、我々の日常のリハーサルではないでしょうか。
異質物語世界の語り、クーデター文学
まあ転生についてはそんなところで。本作は異質物語世界の語りを導入しています。いわゆる三人称視点です。
また「クーデター」を描く作品で、村上龍(『愛と幻想のファシズム』)、押井守への影響が伺えます。龍はさらに大友克洋(『AKIRA』)への影響が顕著です。押井守、大友克洋は岸影様への影響が顕著で、従来の忍者物語だと体制側の忍びは組織の非情さを体現する存在で、自由や正義はどちらかというと抜け忍側にありますが、『NARUTO』ではクーデターを起こす側の方が悪役なのが印象的です。
物語世界
あらすじ
聡子と最後に会うことなく清顕が死んでから18年。
彼の親友であった38歳の本多繁邦は、大阪控訴院判事になっています。本多は頼まれて見に行った大神神社の剣道試合で、一人の若者に目がとまります。彼は飯沼勲といい、清顕付の書生だった飯沼茂之の息子です。
試合後、禰宜の案内で禁足地の三輪山山頂の磐座へいきます。禁足地の山中で三光の滝で勲に出くわし、彼の脇腹に清顕と同じ3つの黒子があるのが分かります。本多は最期の清顕の言葉を思い出します。
本多は勲から『神風連史話』を渡されます。勲は有志達と「純粋な結社」を結成、政界財界華族の腐敗を憤り、仲間と共に剣によって国を浄化しようとします。陸軍の堀中尉とも近づき、洞院宮治典王殿下にも謁見。
勲は、父の主宰する右翼塾「靖献塾」にいる佐和から、財界の黒幕・蔵原武介の危険性を伝えられます。
堀中尉は満州へ転属され、勲の仲間は減るものの、財界要人の刺殺計画は秘密裡に進みます。しかし計画は漏れ、勲たちは実行前に逮捕されます。本多は判事を辞して弁護士となり、本多の弁護により、釈放されます。
勲は計画を父に知らせたのが恋人の鬼頭槇子だと佐和から聞かされて呆然とします。
勲は姿をくらまし、短刀を持って伊豆山に向かいます。そして、蔵原の別荘に忍び込み殺害します。追手を逃れ、勲は夜の海を前にした崖で切腹自殺します。
総評
こんなくだらない作品を今更責めて何になる?
三島由紀夫は正直、戯曲、娯楽小説、評論は良いものの、モダニストとしては川端、中上健次、大江健三郎ほど筋がよくなく、私生活に影が差す60年代からは得意だったジャンルも破綻が目立ちます。これも橋本忍監督『幻の湖』よりはマシですが、かなり荒唐無稽で大味です。
三島由紀夫では私は家庭小説(『潮騒』『宴のあと』『永すぎた春』)、戯曲(『サド侯爵夫人』)やごく初期の『仮面の告白』などを推します。
参考文献
戸田山和久『哲学入門』
木島泰三『自由意志の向こう側』
『神経美学: 美と芸術の脳科学』
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