はじめに
谷崎『痴人の愛』解説あらすじを書いていきます。
語りの構造、背景知識
象徴主義(ワイルド)と古典主義(スタンダール)、ヴィクトリア朝文学(ハーディ)
谷崎潤一郎は英仏の象徴主義、古典主義からの影響が顕著です。オスカー=ワイルドの作品は『ウィンダミア卿夫人の扇』などを共訳で翻訳していますし、『サロメ』的なファム=ファタールを描いた本作もあります。ワイルドの戯曲作品のような、卓越したシチュエーションのデザインセンスとその中での心理的戦略的合理性の機微を捉えるのに長けているのが谷崎文学の特徴です。
スタンダール(『赤と黒』)的な心理劇、古典趣味も谷崎に顕著に影響していますし、またウィルキー=コリンズに影響されつつ、ダイナミックなリアリズムを展開したハーディ(『ダーバヴィル家のテス』)からの影響も顕著です。
この辺りはフォロワーの河野多恵子(「蟹」)、円地文子(『朱を奪うもの』)、田辺聖子(「感傷旅行」)などへと継承されます。
古典のパロディ『源氏物語』と『じゃじゃ馬ならし』。『ピグマリオン』
本作品は古典のパロディになっており、まず『源氏物語』の影響が感じられます。少女を育てて女にするという譲治の欲求は光源氏を参照にするもので、そのグロテスクな欲求が打ち砕かれるのはフェミニズム的な主題を孕むショー『ピグマリオン』の影響や、ナボコフ『ロリータ』への接近を思わせます。
またシェイクスピアの『じゃじゃ馬ならし』に似たレディにお転婆娘を育てるというモチーフが現れ、その願望が挫けます。
一人称視点のリアリズム。等質物語世界の語り
本作品を特徴付けるのは等質物語世界の語り手の譲治を設定していることです。この独特の口語の豊かな語り口が魅力です。
本作品とコンセプトとして重なるのは漱石『こころ』やロブグリエ『嫉妬』、谷崎潤一郎『卍』、芥川『藪の中』、フォークナー『響きと怒り』、リンチ監督『ブルー=ベルベット』と言えます。集合行為における一部のアクターを語りの主体にしたり、または一部のアクターにしか焦点化をしないために、読者も登場人物と同様、作中の事実に不確かな認識しか得られるところがなく、限定的なリソースの中で解釈をはかっていくことしかできません。
本作品は譲治というある種信頼できない語り手が設定されており、ナオミをとりまく男達のさまざまな戦略的コミュニケーションが記述されていきます。あるものたちは性に放埒なナオミを笑い者にし、またあるものはすっかり骨抜きにされて同情を見せたりといった具合で、サブキャラクターの動かし方が巧みです。
また語り手の河合譲治も、ナオミに支配され屈服させられることを楽しむかのような、どこか底の知れない部分があり、信頼できない語りを展開します。
このような心理劇的な膨らませ方の巧さが谷崎潤一郎文学の特徴です。
泉鏡花の影響と口語的世界
『盲目物語』にも見える豊かな口語的語りは谷崎文学の特徴ですが、谷崎のこうした語り口を生んだのは、まず泉鏡花(『高野聖』)の影響でした。
泉鏡花は、尾崎紅葉(『多情多恨』『金色夜叉』)の硯友社のメンバーで、そこから江戸文芸の戯作文学を参照しつつも、リズミカルな口語によって幻想的で性と愛を中心とする世界を描きました。
江戸文芸にあった洒落本ジャンルは、遊郭における通の遊びを描くメロドラマでしたが、鏡花も洒落本を継承して、花柳界におけるメロドラマを展開しました。また読本的な幻想文学要素、人情本的な通俗メロドラマからも影響されて、幻想文学、メロドラマをものした鏡花でした。戯作文学の口語的な豊かな語りのリズムを鏡花は継承しました。
谷崎にもこうした部分における影響が顕著で、本作は語りもののようなリズミカルな口承文学を展開しています。
谷崎の口語的語りはその後深沢七郎や中上健次のようなフォロワーを生みました。
告白文学(芥川、ストリンドベリ)
本作品は谷崎の友人の芥川龍之介が好んだ告白文学のストリンドベリや芥川龍之介作品(『藪の中』『地獄変』)の影響を感じさせます。
ストリンドベリは赤裸々な作家の内面の告白性や自伝的背景を反映する自然主義文学でしられています。芥川はこのストリンドベリの告白の正直さに惹かれ、しかし本人はあまり赤裸々な自伝や告白文学のようなものをキャリアのなかであまりものさず、他方で『藪の中』『地獄変』のような登場人物の告白を描く作品や、晩年には自伝的作品を描くなどしました。
また『痴人の愛』はタイトルもそもそも木村荘太訳のストリンドベリ『痴人の懺悔』に影響された芥川龍之介の共通の友人の久米正雄『痴人の愛』からとったものです。
モデル
小悪魔的な女を描き、「ナオミズム」という言葉が生まれた本作ですが、ナオミのモデルは、当時谷崎の(最初の)妻であった千代の妹・小林せい子とされます。
せい子は1920年、横浜の大正活映に入社し、同年谷崎脚本の『アマチュア倶楽部』で主演デビューして、江川宇礼雄と駆け落ちするなど、奔放な女性でした。
物語世界
あらすじ
語り手の河合譲治は独身の電気技師です。真面目で会社では「君子」といわれていました。それに宇都宮生まれの田舎者で、人付き合いも悪く、異性と交際した経験はありません。財産もあり、醜い顔立ちでもなかった譲治が結婚しなかったのは、結婚の夢があったからです。若い娘を引き取り教育と作法を身につけさせ夫婦になる、という願望でした。
彼は浅草のカフェーでナオミという美少女に出会います。混血のような美しい容貌でした。ナオミを気に入った彼は彼女を引き取り、大森に洋館を借りて2人暮らしを始めます。
友達のように暮らそうと、2人は寝室も別でした。稽古事でレディに教育しようと計画する譲治です。ところがナオミの欠点を正そうとすると、ナオミに籠絡され、最後には譲治のほうが折れてしまうことが続きます。
ある日帰宅すると、玄関の前でナオミが若い男と立ち話をしています。嫉妬から彼はナオミに問いただすが否定されます。しかし、ナオミが他にも何人もの男と関係していると気付き、怒った彼はその男達との一切の付き合いを禁じ、ナオミを外出させないようにします。しかしまた熊谷という男と密会していることが分かり、とうとうナオミを追い出します。
けれども彼はナオミが恋しくなります。心配して探してみると、ダンスホールで知り合った男性の家にとまり、豪華な服装をして遊び歩いていることを知り唖然とします。
譲治のところへ、ある日ナオミが現れます。荷物を取りに来たそうです。ナオミはそんなふうにして、家にときどきやってくるようになります。日が経つにつれて、ナオミはますます美しくなり、ついに譲治はナオミに屈伏します。
会社を辞め、田舎の財産を売った金で横浜にナオミのための家を買いました。譲治は、美しさがましてゆくナオミが、外国の男たちとの交際を重ねるなかで、夫として暮らすのでした。
参考文献
・小谷野敦『谷崎潤一郎伝 堂々たる人生』(中央公論社.2006)
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