始めに
三島『真夏の死』解説あらすじを書いていきます。
背景知識、語りの構造
古典主義(ラディゲ、コクトー)。リアリズム
三島由紀夫はラディゲ(『ドルジェル伯の舞踏会』『肉体の悪魔』)、コクトー(『恐るべき子供たち』)といったフランスの古典主義文学に影響を受けています。私淑した二人にも相通じる、作品全体が合理的に構造としてデザインされた戯曲、家庭小説には佳品が多いです。
ラディゲはコクトーなどのモダニスト、シュルレアリストと親交があって、前衛的な文学的潮流と接触していたものの、本人はフランスの心理小説(コンスタン『アドルフ』、ラファイエット夫人『クレーヴの奥方』)やロマン主義文学(ミュッセ)に習いつつ、古典的な小説スタイルでもって小説を展開していきました。『ドルジェル伯の舞踏会』も、クラシックな心理主義文学のラファイエット夫人『クレーヴの奥方』の翻案です。『クレーヴの奥方』と『ドルジェル伯の舞踏会』は貴族の世界におけるメロドラマであること、貴族の奥方が主人公で貴公子と不倫の恋に落ちることが共通します。
象徴主義、シュルレアリスム的なグランギニョル
本作はグランギニョルな、死の醸す崇高さに着目する内容です。崇高さとは、快と不快が入り混じった美的経験や対象です。
この辺りは精神分析などの心理学、コクトー(『恐るべき子供たち』)、サド(『悪徳の栄え』)の他、リラダンなどの象徴主義文学、森鴎外(「阿部一族」)、ダンヌンツィオなどがグランギニョルなモチーフやプロットの崇高さ(不快かつ快)に着目した表現を展開したのと重なります。
三島由紀夫が好んだ森鴎外にも「堺事件」「阿部一族」「興津弥五右衛門の遺書」といった切腹による死をモチーフにする物語があります。
またボードレール『人工楽園』の一節、「「夏の豪華な真盛の間には、われらはより深く死に動かされる」」がエピグラフとして捧げられてテーマの象徴になっています。
タイトルの意味
主人公の生田朝子(ともこ)は3人の子供の母です。ある夏の日、朝子は6歳の清雄、5歳の啓子、3歳の克雄と、夫の妹の安枝とで、伊豆半島の南端に近いA海岸の永楽荘に遊びに来ていました。しかし2人の子供、清雄と啓子は波にさらわれ、安枝もその際に波に胸を打たれ心臓麻痺になり、3人が亡くなります。
物語はこの「真夏の死」のトラウマから起こる朝子の心理描写を中心に描きます。
時が経って、立ち直りかけるけれども、朝子は、諦念が死者に対する冒涜であると感じ、悲劇をむしろ意識しようとします。自分ばかりが生きていることに罪悪感をも覚えます。
そんな朝子の死をめぐる思弁が描かれます。
死ねなかった自分
三島由紀夫が西郷隆盛に惹かれた理由は、彼の思想の中核をなす「滅びの美学」「行動と死の統一」「生残りの羞恥」という複数のテーマが西郷の生涯に凝縮されていたからでした。
三島は晩年になるにつれて、西郷が体現した潔さと悲劇的な人間性の深さに魅了されていきました。西郷は、地位や名誉を潔く捨て、何度も故郷に隠棲しながらも、周囲の強い信に応えるために最終的に勝てない戦である西南戦争に身を投じました。三島にとって、この行為は、私心を離れ、純粋な精神性を保ったまま現実との衝突によって自己を滅ぼすという、究極の行動による思想の完結として映りました。
これは、三島が文学的師である蓮田善明の、思想は行動によって完結されなければならないという教えから受けた影響と深く共鳴しています。蓮田は終戦直前に上官を射殺し自決することで、自身の日本的な精神性を証明しようとしました。三島は、徴兵を免れ死の予約を果たせなかったことに対する生残りの羞恥という強い罪悪感を抱えており、この罪を清算するためには、蓮田や西郷が示したような自己滅亡の劇を演じる必要があると感じていました。
本作の知子は、再び幸福な生活を求め、生きようとすること自体が、死んだ子供たちへの裏切りであると感じます。以前の華やかな生活や、愛する夫の存在さえも、彼女にとっては重荷となり、生きていることの不潔さとして感じられるようになります。
この幸福の否定と、悲劇を通過した者だけが理解できる精神的な領域への傾倒は、三島が終戦後、戦死できなかった自分に抱いた感情の文学的表現と深く重なります。
知子の内面は、死者と同じ静寂の世界への憧れと、潔い死による罪の清算という渇望によって支配されていきます。物語の終盤、彼女は再び海を訪れますが、そこで見たものは、死の恐怖ではなく、死という絶対的な美だったのでした。
物語世界
あらすじ
生田朝子(ともこ)は3人の子供の母です。ある夏の日、朝子は6歳の清雄、5歳の啓子、3歳の克雄と、夫の妹の安枝とで、伊豆半島の南端に近いA海岸の永楽荘に遊びに来ていました。
しかし3人の子供と安枝が海に出ていたところ、2人の子供、清雄と啓子は波にさらわれます。驚いた安枝は海に向かうものの、波に胸を打たれ心臓麻痺になります。こうして3人は亡くなります。
1人残された子供の克雄を溺愛しつつ、事故から朝子は立ち直っていくものの、それは過去の忘却を伴うものです。朝子は自分の忘れっぽさと薄情が恐ろしくなります。朝子は、母親にあるまじき忘却と薄情を、子供たちに詫びて泣きます。朝子は、諦念が死者に対する冒涜であると感じ、悲劇を意識しようとします。
自分たちは生きており、かれらは死んでいるということが、朝子には悪事を働いているように思われます。生きているということは、残酷だと感じます。
冬のさなか、朝子は懐胎します。しかし、あの事件以来、朝子が味わった絶望は単純なものではありません。あれほどの不幸に遭いつつまだ正気のままでいるという絶望、人間の神経の強靭さに関する絶望に悩みます。そして晩夏に女児の桃子を出産します。
桃子が産まれた翌年の夏、事件から2年が経過した晩夏、朝子は夫に、A海岸に行きたいと言い出します。夫・勝は驚き反対したものの、朝子が同じ提言を3度したので、ついに行くことになります。勝は行きたい理由を訊きますが、朝子はわからないといいます。
家族4人は波打ち際に立ちます。勝が朝子の横顔を見ると、桃子を抱いて、放心しているような、何かを待っている表情です。勝は朝子に、一体何を待っているのか、訊こうとしたものの、訊かないでもわかるような気がし、つないでいた息子の克雄の手を強く握ります。




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