始めに
堀辰雄『かげろふの日記』解説あらすじを書いていきます。
背景知識、語りの構造
モダニズムと象徴主義
堀辰雄は広くモダニズムや象徴主義、ロマン主義の作家から影響を受けました。師匠筋の芥川龍之介のほか、萩原朔太郎、ジャン=コクトー、レイモン=ラディゲ、メリメ、スタンダール、ジッド、ポール=ヴァレリー、リルケ、ボードレール、プルースト、アポリネール、ジョイスなどからの影響があります。
またショーペンハウアー、ニーチェなど、ドイツ観念論の思想家の影響も大きいです。
作家性の傾向としては、ラディゲや後輩の三島由紀夫とか、カポーティみたいな感じで、モダニズムの反俗的、反ブルジョワ的なコンセプトは継承しつつ、スタイルとしては古典的なスタイルを採用する印象が顕著です。
本作は王朝文学に題材を取り、ラディゲ『ドルジェル伯の舞踏会』やラファイエット夫人『クレーヴの奥方』のような、三角関係や嫉妬の織りなす古典的心理劇と、宗教的コミュニティの底で果たす役割が描かれます。
またジッド『田園交響楽』を連想させる、パストラル風のロケーションで展開されるメロドラマが印象的です。
パストラル
狭義のパストラルは、田園の理想郷を舞台として牧人たちが恋の歌を競い合う韻文ですが、やがてパストラルロマンス、パストラルドラマといった、散文による田園地帯におけるメロドラマが定着していきました。
パストラルはかっちりしたジャンルとしては希薄になっていたものの、そのジャンルのモードは後続の作品に大きな影響を与えました。堀辰雄に影響したジッド『田園交響楽』もそうしたモードの特徴が顕著です。
本作は中世日本を舞台にし、悲劇的なロマンスを展開します。
リルケと民俗学、王朝文学の刺激
堀辰雄は折口信夫の民俗学や古典文学から刺激を受けました。
『更級日記』、『伊勢物語』、『蜻蛉日記』や、折口信夫の『古代研究』を読みながら、『かげろふの日記』を書き始めています。
『かげろふの日記』には、続編の『ほととぎす』があり、執筆動機が言及されている「七つの手紙」がその冒頭に置かれ、リルケとの関係が言及されています。
堀辰雄は、リルケが『マルテの手記』で記した「常にわれわれの生はわれわれの運命より以上のものである事」というイデーに導かれて『風たちぬ』を執筆して以来、その「私に課せられてゐる一つの主題」の発展が、『蜻蛉日記』の主人公・藤原道綱母を取り上げることによって可能であると考え、そこに「恋する女たちの永遠の姿」を発見しました。リルケを通じて、「愛に生きる女たち」の生のかたち、女たちの生き方に感動した堀は、日本の王朝女流日記の作者たちにもそれに類似した「生のかたち」があることに気が付きます。
このような関心は『菜穂子』の前半などから繋がります。
原作『蜻蛉日記』
本作は藤原道綱母『蜻蛉日記』を下敷きにした日記文学です。
夫である藤原兼家との結婚生活、兼家のもうひとりの妻である時姫(藤原道長の母)との競争、夫の妻妾、唐崎祓、石山詣、長谷詣、上流貴族との交際、母の死、息子藤原道綱の成長と結婚、兼家の旧妻である源兼忠女の娘を引き取った養女の結婚話とその破談などを描き、藤原道綱母の39歳の大晦日までが綴られます。
他方で本作『かげろうの日記』では、兼家と藤原道綱母、道綱のことが中心的に描かれ、結構なエピソードがオミットされています。
王朝文学の出家とジャンセニスム
平安文学において「出家」は、貴族社会の栄華や人生の無常観と深く結びついて描かれ、多くの作品に登場します。特に、貴族社会の退廃や人生の儚さを背景に、出家が個人の救済や精神的な解放を求める手段としてえがかれます。
ラファイエット夫人『クレーヴの奥方』でも出家がそのような役割を果たしていました。当時ジャンセニスムが流行を見せました。ラ=ロシュフーコーもこれに感化され、その友人であるラファイエット夫人もジャンセニスムに触れました。神学思想としてのジャンセニスムは、後期アウグスティヌスの恩寵観を踏まえ、神の預定と恩寵の絶対性をとき、原罪以後の人間の無力を強調します。よく知られる、修道院に籠るようになるクレーヴの奥方の最後の描写など、この思想の影響が見えます。
本作は古典的王朝文学やフランス王宮文学のこのようなモードを踏まえています。
物語世界
あらすじ
自分の並々ならぬ身の上を日記につけて見たら、珍しがってくれる人もあるかもしれず、それに、私のようにこんなに不幸せになったのは、あまりに女として思い上がっていたためであろうかどうか、世間の人々がその例にもするがよいと思う、と考えて、ある女人が自分の半生を振り返ります。
10何年も前の初夏、柏木と呼ばれていた「あの方」(藤原兼家)が「私」(藤原道綱母)に文(恋文)を寄こします。最初は私の方では熱心にもなれず、やがて秋近く、私はあの方を通わせすることになり、あの方は何を措いても、ほとんど毎夜、私の許へ通います。
10月になり、「私の父」(藤原倫寧)が陸奥守に任ぜられ奥州に下り、父との別れに気落ちしていた私は、その頃あの方に馴れておらず、会っている時も涙ぐみます。あの方はそんな私をかえって愛しがられ、「一生お前の事は忘れまい」と誓うものほ、私は何となく行末が不安でした。
それでも父親と別れ頼る身のない私は、いよいよあの方を頼る外なく、翌年の夏にあの方との男児道綱を産みます。
ところが9月になり、どこかの女からの手紙が手筥にあったので、私はわざとそれを読んだと分かるようにしておくものの、あの方はそれを気にも留めず、小路の女の許へ通いはじめます。嫉妬した私はあの方が帰ってきても戸を開けさせないこともあります。それからも、あの方は折々私の家へ来ていたものの、やがてその女の方にばかり行くようになり、向こうの女も私に対抗し、手紙をよこします。
幼い道綱が片言まじりに物が言えるようになるものの、人手の少ない家の庭は荒れ放題になります。そんな私に、まだお若いのだからと再婚を勧めてくれる人もあります。それでも、私は思いあぐねます。
小路の女のところでは子供が生まれたものの、あの方はその女の許へあまり行かなくなったという噂でした。その女が憎い思いつめ、「私の苦しみをそっくりそのまま味わわせてやりたい」と考えていた私は、それが叶いそうな上に、その女の生まれたばかりの赤ん坊が死んだと聞いて、喜びます。
数年が空しく過ぎ、私は苦しくてたまらなくなります。側近の者たちが護摩なども試みさせるが効力はありません。あの方は見舞いもせず、立ち寄っても、車から「どうだ」と声をかけるだけで、新築中の邸をそのうち見せてやろうとは言うものの、私は「生きているのかどうかも分かりません」とだけ返事をします。
やがて私は回復するものの、その間にあの方たちは新築した邸宅の方へ移住し、私だけは思った通り、このままここにこうしておればよいという事になります。
道綱が15歳になったころ、珍しくあの方が顔を見せるものの、そのままずっと来なかったのでした。私は前より憂鬱になります。
道綱が16歳になり、ある8月の夕方、突然あの方が顔を見せ、道綱を側に引きよせて耳打ちし、「おれの心もちはちっとも変らないのに、それを悪くばかりとるのだ」などと私のことを言っていました。それから、しばしば顔を見せていたが、道綱の元服が終わると、また音沙汰がなくなります。
やがて灯し頃となり、南面にいる私の妹のところへはこの頃通って来る男人がいました。前に坐っていた古女房が、「昔の殿でしたら、これ以上の雨にだって、御いといなさらずにいらっしゃったものですのに」と少し涙ぐんで応えます。私はそのうちに何か熱いものが頬を伝い出したのに気づき、「思ひせく 胸のほむらは つれなくて 涙をわかす ものにざりける」と思わず口をつきます。
やがてあの方は、ずっと「近江」という女のもとへ通い詰めだという噂になります。そんなある日、あの方はまた思い出したように手紙を寄こし、私が素っ気ない返事をやっても平気な様子で、何事もなかったかのように、縫物などを持って来させて、仕立ててくれと言ってよこします。だが、私はそれを縫うことなく、そのまま返しました。
京に戻って来ている父の許へ行った私は、道綱も側に呼んで、長い精進を始めます。私は、「どうぞ思い切って死なせて、菩提をかなえさせて下さいませ」などと、涙ぐみお勤を続けます。
物忌も果て私は家に戻ったものほ、ある日あの方の召車がいつものように仰々しく前駆させながら近づいて来ます。私の側近の人々は、殿がいらしたと騒ぎ出し、私も知らぬ顔でお勤を続けながらも、内心胸をときめかせます。しかしあの方は私の家の前はそのまま通り過ぎるだけでした。私は心の中で、激しい怒りを涌き上がらせます。
その後あの方が手紙をさし入れたりしたものの、私が家に戻っていたのを気づいていたはずを、ごまかしたような文面に私を腹立てます。
ときどき思い出したように何か気安めみたいな事を言って来ると、反って私には辛いのでした。
私は決意し、西山の寺へ引きこもることにします。あの方は、「何処へ行くのだか知らせてくれ。とにかく話したいことがある」と書いてよこしたものほ、それが一層せき立てるように私を西山へと急がせます。
山路を辿り、夕方に私はある淋しい山寺に着ぎす。湯に入り、御堂へ行こうと思っていると、里の方から人が駆けつけ、殿(あの方)の「迎えに行く」という知らせを持って来ます。
その夜、あの方は私を迎えに来て、門のところに車を止めたものの、私は拒絶したので、あの方もとうとうそのまま帰ります。道綱が気にしたため、私はあの方への手紙を持たせて京へ立たせます。「途々も、昔御一緒に参ったことのあるのを思い出しながら参りましたが、ほんとうにあなた様の事ばかりお思い申し上げているのです。やがてわたくしもここを下ります」と書き添えます。
そのうち身が穢れ、私は寺から少し離れたあるみすぼらしい山家に下ります。私は物思いにふけり、こんな辛い思いをし、また子供にまでそうさせて、こうして自分が気安くしているのかと思うと、遂にはその気安さそのものさえ自分を苦しめ出します。
ある朝、私は道綱に無理に「お魚でも召し上っていらっしゃい」と言いつけて、京へ立たせます。道綱はあの方から手紙を托せられます。手紙には、「もし、たまたま山を出られる日があったら前もって知らせてくれ。迎えに行こう。何だかもうそちらで私の事なんぞはすっかりお見棄てらしいから、こちらから近寄るのはすこし怖い」などとあります。2、3日後、道綱が返事の手紙をしきりにせびるので、しまいには道綱が可哀そうになり、自分でも思い出せないような事ばかりを書いて持たせてやります。
ある日の昼頃、突然、関白殿の子息の兵衛佐などが私のいる山寺を訪れ、私を慰めます。「今日お出になりませんか」などと道綱の事まで持ち出して熱心に説得するものの、私はじっと思いつめ出したようなったので、兵衛佐も諦め、夕方になると帰ります。
数日後、京で留守居をしている人から、今日あたり殿が迎えに来るという連絡があります。私は強情を張ろうとするものの、ちょうどその日、田舎から上洛して来た私の父親が、京へ着くなりその足ですぐ山寺の私の許にやって来て、一緒に出ることになります。
それから数刻と立たないうちに、大門の外に突然人のどよめきがし、あの方が入ってきて、結局私は山寺を出ていきます。
その後、あの方の物忌の終わる日を、私は空しく待ったが、夜が更けてもあの方は来ません。翌朝、道綱が、理由を聞きに出かけていったものの、あの方の返事は、急に気分が悪くなり苦しくなったというもので、私はそんな見え透くような嘘の言葉なら聞かない方がよかったと思います。やはり、少しはあの方の心に変化があったかと考えたのは思い過ごしで、相変わらず以前のままだったらしい、と私は思います。
そんなことを考えていると、あの方の妹からの手紙があります。私は返事に、山に入っても自分のような意気地のない者にはまことに中途半端だったこと、今度という今度ばかりは本当に苦しい思いをしたこと、しかしそのような苦しい思いも、みんなあの方が私に与えたものだと思えば、かえって愛しくて、ある時などは自分から好んでそれを求めたほどだったこと、そういう折々の空けた私にはどうかいたすと、そんな苦しみが無ければないで、かえって一層はかなく、ほとんどわが身があるかないかになってしまいはせぬかと思われるほどだったことを告白します。
それが済むと私は、「いくらあの方からお離れしようとも、もう自分がお離れできない事はよく私にも分かっている筈だろうから」と決心し、自分の切ない心もちを、「あの根を絶たれて、もうすべての葉は枯れ出しながら、しかもまだそのか細い枝は以前のままに他の木の幹にからみついたままでいる、あの蔓草に似ている」と考えます。
それから間もないある夜、あの方がひょっこり私の許へやって来て、この間の言い訳や、他のことを措いても急いでここへ来たことを言います。
それから数日後、私は、今度伊勢守になった父親が再び近いうちに任国へ下るため、しばらく父親の許で一緒に暮らしたいと考え、あの方には何も知らせずに、ある物静かな家に移ります。そうまでしたのに、2、3日後の昼頃、突然とあの方が入ってきて、顔色を変えながら、傍らにあった香や数珠を乱暴に投げ散らかします。だんだんとあの方が私のために嫉妬に苦しめられたことが分かってきたものの、あの方は自分ではそれには一向気づこうともしないようでした。やっとその乱暴が静まり、急にあの方はいつものように冗談などを言い出します。
しかし、そうして明くる朝になって、平生のいかにも颯爽とした姿に立ち返えり帰っていこうとするあの方の後ろ姿を、突然、胸のしめつけられるような思いで見入りだしているのは、いつしか私の番になっていました。
参考文献
・竹内 清己 (著)『堀辰雄: 人と文学』



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