はじめに
堀辰雄『美しい村』解説あらすじを書いていきます。
背景知識、語りの構造
モダニズムと象徴主義
堀辰雄は広くモダニズムや象徴主義、ロマン主義の作家から影響を受けました。師匠筋の芥川龍之介のほか、萩原朔太郎、ジャン=コクトー、レイモン=ラディゲ、メリメ、スタンダール、ジッド、ポール=ヴァレリー、リルケ、ボードレール、プルースト、アポリネール、ジョイスなどからの影響があります。
またショーペンハウアー、ニーチェなど、ドイツ観念論の思想家の影響も大きいです。
作家性の傾向としては、ラディゲや後輩の三島由紀夫とか、カポーティみたいな感じで、モダニズムの反俗的、反ブルジョワ的なコンセプトは継承しつつ、スタイルとしては古典的なスタイルを採用する印象が顕著です。
また本作はプルースト『失われた時を求めて』の影響で、意識の流れのような実験的語りも取り入れられています。加えて、創作をめぐる創作という点でも『失われた時を求めて』と重なります。
また本作はジッド『田園交響楽』を連想させる、パストラル風のロケーションで展開されるメロドラマが印象的です。
パストラル
狭義のパストラルは、田園の理想郷を舞台として牧人たちが恋の歌を競い合う韻文ですが、やがてパストラルロマンス、パストラルドラマといった、散文による田園地帯におけるメロドラマが定着していきました。
パストラルはかっちりしたジャンルとしては希薄になっていたものの、そのジャンルのモードは後続の作品に大きな影響を与えました。堀辰雄に影響したジッド『田園交響楽』もそうしたモードの特徴が顕著です。
本作に描かれる軽井沢村という田舎の空間も、パストラル的な理想主義的美をたたえています。
モデル
堀は『聖家族』を書き上げた後、1930年10月に結核から喀血をし、1931年4月から富士見サナトリウムに入院し、6月に退院後は、知人である軽井沢の片山広子(松村みね子)の別荘や宿屋に過ごしていました。
『美しい村』の執筆を始める頃、堀が片想いしていた松村の娘片山総子との別れがあり、本作の下敷きです。
松村みね子の一人娘である片山総子は、これに先駆ける『ルウベンスの偽画』に登場する「刺青をした蝶のやうに美しいお嬢さん」であり、また『聖家族』の細木絹子のモデルです。その後の『菜穂子』に、この母子のことがさらに描かれます。
1933年6月に軽井沢を訪れ「つるや旅館」の「つつじの間」に滞在した堀は、7月に堀の婚約者となり、『風立ちぬ』のヒロインとなる矢野綾子と出会います。本作でも、彼女をモデルとした麦わら帽子の少女との出会いを描きます。
物語世界
あらすじ
6月初め、高原の避暑地・K村(軽井沢村)を1人訪れた「私」は、最近の或る女友達との別離を主題にした小説を書くつもりでいます。女友達へ近況を告げる手紙も書いてみたものの、出そうか迷い、村中を歩き回る毎日を送ります。
この数年間、孤独な病院生活や、様々な出来事や別離に苦しみ、再び仕事に取りかかろうとしている「私」は、1人きりになるべく、少年時のな思い出と結びつけられている高原を数年ぶりに訪れていましたが、違和感を覚えます。
しかし、「私」は村々を散歩しているうちに、自分の不幸な恋愛事件を書いてみようという思いも失い、『アドルフ』のような小説を書きたいと思う代わりに「花だらけの額縁の中へすっぽりと嵌まり込むような古い絵のような物語」を書けたらいいと思いながらアカシアの花や野薔薇の道を行き、落葉のヴィラにひっそりと暮らす2人の老嬢や、老医師レイノルズ博士と美しい野薔薇、気狂いの木樵りの妻とその小娘の挿話などが、想起されます。
梅雨の晴れ間のある朝、サナトリウムの生墻に沿って行き、そこに咲く野薔薇に、「私」は10年前の少女たちとの邂逅を思い出します。そして、その中の1人であった少女(別れた女友達)がその数日後、水車の道近くのベランダで、髪を垂らして籐の寝椅子にもたれていたのを回想します。それは数か月前の別れの時の冷ややかな彼女の面影と異なるものでした。
真夏の近づいてきたある日、窓から見える中庭の茂みの向こうに、眩しい少女が立っているのが見えます。黄色い麦藁帽子をかぶった、背の高いその少女は、「私」の視線に気づき、「私」の方を見つめます。
宿の別館から出てきた父親らしき人物と少女が立ち去った後も、「私」はそこを見つめていたものの、ふと気づくと夏らしい匂いが漂います。「私」が居た離れが修繕されるため、「私」は別館の方へ移り、まだ他に滞在客のいないそこで、「私」と少女と2人だけの背中合わせの生活が始ります。
「私」は部屋で「美しい村」という物語を書く仕事に没頭します。物語の結尾は、気まずい別れをした女友達との再会を恐れて彼女がやって来る季節の前にこの村を立ち去るという展開を構想します。
例の少女は毎朝決まった時間に絵具箱をぶらさげて出かけます。そのうち少女と会話を交わすようになった「私」は、手製の村の地図を彼女に見せて、一緒に出かけるようになります。彼女と見る風景は、以前悲しい目で見た感慨とは一変し、魅力をなくしていました。
「私」は、打ち解けはじめた少女と一緒にいたくなり、村を立ち去るのをやめ、これまで近づきにくかった女友達の別荘のある水車の道のあたりへも散歩します。
やがて「私」と少女は腕を組んで歩くまでに親しくなるのでした。
参考文献
・竹内 清己 (著)『堀辰雄: 人と文学』




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