始めに
今回は、大江健三郎の追悼企画の第二弾です。義兄・伊丹十三の映画化もある『静かな生活』についてレビューを書いていきたいと思っています。
語りの構造
等質物語世界の語り手「私」の家族のドラマ
この作品は等質物語世界の語り手で、イーヨーとよばれる障害者の兄をもつ大学生の女性マーちゃんに焦点化が図られます。彼女がイーヨーと自分との関係を考察するなかで成長していく様が描かれています。その点で『キルプの軍団』に重なります。
『新しい人よ眼ざめよ』の続編にあたる内容で、そこから視点をマーちゃんにうつして展開しています。
マーちゃんは両親が留守にする間に、イーヨーの面倒を見たり、トラブルに見舞われつつも成長していきます。
くまのプーさんの物語の象徴としての家族のドラマ
イーヨーという名前は、A=A=ミルン『くまのプーさん』シリーズのロバのイーヨーから取っています。愚鈍でお人好しなイーヨーと、作中のイーヨーが結び付けられています。大江健三郎にはミルンにちなんだ『僕が本当に若かった頃』と呼ばれる作品もあり、並々ならぬミルンへの関心が伺えます。
障害のある子供の光を授かった大江にとって、父を敬愛し、息子クリストファー=ロビンと確執を生んだA=A=ミルンという存在は、共感できる部分が多いものと思われます。
アートワールドの中のテクストの引用、象徴としての自己物語
大江特有の、過去のアートワールドの中のテクストや、歴史的出来事を自己物語との関連の中で解釈しようとする手法(『取り替え子』『水死』)はここにも共通しています。
この作品ではストルガツキー兄弟が手掛け、アンドレイ=タルコフスキー監督『ストーカー』(ストルガツキー兄弟の原作も)に関して家族で論じ合う場面があります。『ストーカー』は原作と映画でやや趣が違い、映画の方が神学的主題が強いのですが、本作品はもっぱら映画の方を中心に取り上げています。『宙返り』『治療塔』シリーズ(1.2)も本作の影響が顕著です。
『ストーカー』は預言者の物語として解釈されているのですが、主人公・マーちゃんは、兄・イーヨーを預言者のような存在と考えていて、そのある種「弟子」のような存在として、自己を構築しています。最終的にルイ=フェルデナン・セリーヌのテクスト(『リゴドン』)から自身の、一個の個人としての生き方を確立していきます。セリーヌ(『夜の果てへの旅』)は大江健三郎同様に、ラブレー(『ガルガンチュアとパンタグリュエル』)の影響が顕著で、その語り口の豊かさと生の哲学には共通点が見えます。
滲む不穏の影
作品のタイトルはマルグリット=デュラス『静かな生活』からとったものと思われます。デュラスの作品では、フランシーヌ・ヴェレナットが主人公です。都会から南仏ペリグーの田舎に来た平凡な一家に暮らすヒロインです。そして一見平穏で「静かな生活」が次第にさまざまな暴力や死に苛まれるという内容です。
どちらの作品も日常の中に不穏の影を忍ばせる手法が共通しています。
本作品では「新井くん」という青年が持つ加害性が不安の影となっています。新井くんは父に昔、小説の登場人物として殺人者として悪く書かれたこと(『「雨の木」を聴く女たち』の「泳ぐ男――水の中の「雨の木」」)を恨んでいます。私が彼のマンションに誘われ、襲われそうになったところをイーヨーが救助します。
性暴力
この作品にも性暴力の展開があります。『取り替え子』などにもあるこの主題は、大江文学にとって重要なものになっています。
この作品はそうした脅威を乗り越えて、預言者イーヨーとの関係の中で自己を確立していく「私」の成長が中心になっています。
物語世界
あらすじ
マーちゃんというあだ名で大学の仏文科の女子学生「私」は、著名な作家の父、母、弟で受験浪人生のオーちゃん、そして知的障害者で福祉作業所の工員である兄のイーヨー、の5人暮らしです。イーヨーには作曲の才能があります。
中年の危機の「ピンチ」を抱えた父は、カリフォルニアの大学へ居住作家(ライター・イン・レジデンス)として母を連れて出向きます。それからは「私」がイーヨーたちの面倒を見ます。イーヨーの作曲の勉強の指導をしてくれる父の友人の重藤さん夫婦が、3人の生活をサポートするのでした。
「私」は、自分は、イーヨーに音楽の才能があるから、彼を特権的に見て、彼にどこまでもついて行こうとしている自分をなんでもない人ではないと考えていたものの、それも傲慢なのではないかとも考えるようになります。
「私」は、仏文科の卒業論文のテーマにセリーヌを選びます。セリーヌが、自伝的な『リゴドン』の中で「私たちの小さな白痴たち」と呼ぶ知的障害の子供たちと戦火のなかを生き延びる姿に、センチメンタリズム抜きの優しさを示す様に共感します。
私はイーヨーを連れて父の契約する会員制プールに通うようになります。新井くんという青年が、イーヨーに水泳指導をしてくれるものの、新井くんは父に昔、小説の登場人物として悪く書かれたこと(『「雨の木」を聴く女たち』の「泳ぐ男――水の中の「雨の木」」)を恨んでいます。私が彼のマンションに誘われ、襲われそうになったところをイーヨーが救助します。
この事件から、母は父をアメリカに残して帰国して、家族4人の生活が始まるのでした。
登場人物
- 私:語り手の女子大生。卒論を控えている。兄・イーヨーを愛している。
- イーヨー:「私」の兄。障害を持つが音楽に秀でる。優しい性格。
関連作品、関連おすすめ作品
・ストルガツキー兄弟『ストーカー』(タルコフスキー監督が映画化):作品で言及される。黙示録的な世界でのドラマ。
・松本大洋『鉄コン筋クリート』:障害のある親友との関係の中で自己を確立する主人公のドラマ。
・ルイ=フェルデナン・セリーヌ『なしくずしの死』:ラブレー的なフランスの伝統を継ぐドラマ。豊かな語り口。



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