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魯迅『狂人日記』解説あらすじ

魯迅
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始めに

魯迅『狂人日記』解説あらすじを書いていきます。

背景知識、語りの構造

リベラリスト魯迅

 魯迅は武者小路実篤、バイロン、トウェイン、エロシェンコ、トルストイ、フローベール、ドストエフスキーなどからの影響があり、傾向としてはロマン主義や写実主義に影響を受けました。

 トルストイなどロシアの作家は、西洋諸国の先進的な文化と自身のコミュニティの相対的な後進性のなかで、自国の民衆を縛る因習や慣習を批判的に描きましたが、本作も同様のイズムです。

 また本作もドストエフスキー『罪と罰』のような青年の狂気を描きます。とはいえ保守主義者であるドストエフスキーとちがって、魯迅は進歩的な知識人です。

 魯迅は中国の社会改革と革命を志し、文筆を通じ中国人民の精神を啓発しようとしていました。

語りの構造

 日記形式と、強迫観念や関係妄想に取り憑かれつつも一定の的を射ている社会批判を展開する狂人というコンセプトで、ゴーゴリの『狂人日記』からの影響が顕著です。

 語りの構造としては、「私」が中学時代の友人が重い病気にかかっていると聞いて見舞いに行き、実際にはその弟が病気で、すでに快復したそうで、 その友人が、病気だった弟が書いた日記を私に見せる、という流れで外枠がまず展開されます。そしてそこから本筋の狂人の日記が展開されます。

 日記の書き手は、確かに妄想に支配されているものの、『ドン・キホーテ』におけるドン・キホーテと同じく、その正義感は本物で、また社会における実践に対する批判も、方向性としては当を得ているところがあります。

食人と儒教

 「狂人」は、家族と周囲の村の両方で「人食い」があると妄想し、儒教の古典の中にも人食いを見出します。これによって儒教倫理に支えられた中国の規則、習慣、社会、その中での実践における「人食い」の性質の象徴です。

 儒教という規範は、人のためにあるのではなく、むしろ人を支配し、搾取するために機能している部分がありました。

 狂人の「おれ」は、人間を食べたいという欲求に苛まれつつ、他人に食べられないように警戒する人々の心理が、疑心暗鬼を作り出していると気付きます。結局これは儒教規範のなかでの伝統的な人々の支配と搾取の連鎖や、それとベクトルを同じくする植民地時代の中国における中国人民の奴隷根性(『阿Q正伝』にも描かれる)を風刺するものです。

物語世界

あらすじ

 「私」は中学時代の友人が重い病気にかかっていると聞いて見舞いに行きましたが、実際にはその弟が病気で、すでに快復して、仕事のために家を出たそうです。 友人は、病気だった弟が書いた日記を私に見せます。その日記は被害妄想に取り憑かれ混沌としていましたが、私は登場人物の名前を変更し、これを医学研究の資料とします。

 以下は日記の内容です。「おれ」は、ある日、犬がじっと見つめているように感じたことから、通りで出会う人々が自分を見ていると思い込みます。子供たちもにらんでいると感じます。家族でさえも、おれに対して遠慮がちに振る舞うように見え始めました。 数日前に他の村から来た農夫から、「おれ」の村の人々が犯罪者を撲殺し、その内臓を食べたという話を聞き、みんなが「おれ」を食べたがっているのだと感じます。

 兄が連れてきた医師が静養を勧めたとき、私はそれが「おれ」を太らせて食べるための策略だと思います。医師が兄に「できるだけ早く薬を飲ませて」と囁くのを聞き、兄も「おれ」を食べようとしていると気付きました。やがて、皆が「おれ」を殺すことを恐れ、「おれ」に自殺を促していると思うようになりました。

 人間を食べたいという欲求に苛まれつつ、他人に食べられないように警戒する人々の心理が、疑心暗鬼を作り出していると気付いた「おれ」は、兄にはその考えを改めさせようとします。

 不意に一人の男が現れました。「おれ」は彼に、「人間を食べることは正しいのか?」と質問しました。男は最初は話をそらすものの、最終的にはそれが間違っていると答えます。おれは驚いて目を覚ましましたが、夢だったようで、その男はいませんでした。

 兄に食人のことについて説得しようとしたとき、多くの人々が正門から家に入ってきます。兄は「狂人を見世物にするな」と叫んで追い払おうとします。「おれ」は、自分が狂人とされ、食べられることになんの不都合もないと思わせる口実が作られたと悟り、改心しなければ自分も犠牲になると彼らにも説いて聞かせます。

 部屋に戻されると、梁や垂木が重くのしかかり、動けなくなります。しかしそれが幻想であることに気付いた私は、何とかその場を逃れて、自分を襲おうとする者たちに「心を改めろ」と叫びます。

 やがて「おれ」は、亡くなった五歳の妹も兄に食べられたと疑います。妹の肉が料理に混ざっていて、「おれ」もそれを食べてしまったかもしれないと言います。

 自分の中に古くからの食人の歴史を感じ、真っ当な人間として他人の前に立てない「おれ」は、まだ人を食べたことのない子供たちだけは救いたいと願います。

参考文献

・小山三郎 (著), 林田愼之助 (監修)『人と思想 魯迅』

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