はじめに
蓮實重彦『伯爵夫人』解説あらすじを書いていきます。
背景知識、語りの構造
ナボコフ『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』との関係
本作はピンチョン『V.』とナボコフ『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』からの影響が見て取れ、特に前者と重なります。
ピンチョン『V.』はナボコフ『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』からの影響があります。物語で中心的な役割を果たす「V」という存在ですが、ナボコフ『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』の語り手が「V.」という名前で、作品のコンセプトも似通っています。
ナボコフ『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』では、語り手であるV.は、夭逝した、異母兄であるロシア生まれの英語作家セバスチャン=ナイト(1899年~1936年)の伝記執筆に没頭しています。彼の元秘書であったグッドマンが書いた伝記『セバスチャン・ナイトの悲劇』が間違っていることを証明しようとします。そして兄はクレア・ビショップという女性との関係を長く続けた後、別の女性との辛い恋愛を経験したのだと語り手は考えます。この最後の女性はロシア人で、この女性の正体を探ろうとします。物語は信頼できない語り手であるVによって語られ、結局セバスチャン・ナイトのことは、ほとんど何も分からず、語り手についてもよく分からない、というのが作品全体のデザインです。またVとセバスチャンも実は同一人物であるか部分的に混合している可能性も示唆されています。
『V.』もこれと類似のコンセプトで、主人公ハーバード=ステンシルは父と関係した謎の「Vの女」について探ろうとするものの、結局最後までその正体は全く分かりません。また二人の主人公である元水兵の放浪者ベニー=プロフェインもハーバート=ステンシルも、どちらもどこかに、どこにもいないかもしれない理想の女性を追い求めていて、いつも心の中に空虚な空洞があります。さながら三島『金閣寺』、フィッツジェラルド『グレート=ギャツビー』、フルニエ『モーヌの大将』のような、実体のない空虚な理想を追い続ける青春の寓話としてうまくそれが機能しています。
伯爵夫人も同種のコンセプトです。
伯爵夫人
タイトルになっている伯爵夫人なんですが、これがちょうどピンチョン『V.』のVの女と設定が似ています。
帝大入試を間近に控えた主人公の二朗は、謎めいた伯爵夫人に誘われ、性の昂ぶりを憶えます。伯爵夫人は、何か国家的陰謀に関わっているともされるも正体は不明で、その正体を探ることには危険が伴うようです。
結局、この伯爵夫人の途方もない力が示されつつも、その正体は最後まで分からず、そもそも実在していたのか、もしかしたら部分的には二朗の夢ではないのか、という疑いも起こります。
そしてこの伯爵夫人は、エログロナンセンスと、それと隣り合わせにあった太平洋戦争の陰謀の両方を象徴し、前者の夢が覚めたあとに、戦争を迎えます。
語りの構造。エログロナンセンスから、太平洋戦争へ
本作は異質物語世界の語りを設定していて、二朗に焦点化を置きます。
帝大入試を間近に控えた二朗は、謎めいた伯爵夫人に誘われ、そこに従妹の蓬子や和製ルイーズ=ブルックスら魅力的な女たちが現れます。やがて女たちとの性の狂騒とナンセンスの果てに、二朗が最後、ふと夕刊に目をやると、『帝國・米英に宣戰を布す』の文字があります。今日は昭和十六年十二月八日。すべては目醒めたばかりの二朗が思い出した、一瞬の夢だったのでした。
このような語りの構造により、エログロナンセンスに代表される、大正デモクラシーやその余韻のなかでの、戦前の自由でアングラなムードがその時代を彩る映画などさまざまなテクストにより描かれ、そこからやがて太平洋戦争の時代へと至るという日本の歴史的変遷が、青年の性的混乱の時代から大人への成長のプロセスと重ねあわせて展開されます。
夢のような自由な青年時代が去り、それが醒めたら大人になって、戦争という現実に直面する二朗が描かれます。
モダニズムと歴史記述、新歴史主義
フレイザー『金枝篇』がT=S=エリオット『荒地』に導入されて以降、作家は語りの手法に民俗学、社会学的アプローチをも積極的に取り入れるようになっていきました。
旧来的な中央の事件史としての歴史記述においては、歴史の構造的理解に欠き、そこから捨象される要素が大きすぎましたが、アナール学派は特定のトポスに焦点を当てたり、ミクロなアクターの視点に注目したりして、歴史の構造的把握と、歴史を構成するアクターの単位の修正を図りました。アナール学派の動向は、ポストコロニアル批評や文学に影響しました。本作にも、種々の時代を彩るテクストを引用し、一人称的視点に着目することで、アナール学派的心性史を小説として展開しています。
本作はまた、新歴史主義的コンセプトがうかがえます。新歴史主義は、文学から思想史を理解し、文学をその文化的文脈を通して理解することを目指す運動です。新歴史主義は、あらゆる表現行為は物質的な実践のネットワークに組み込まれているとみて、現実を構成する要素としてテクストを解釈しました。本作で引用される映画や小説など種々のテクストは、その時代の歴史を構成するものとして本作で描かれます。
形而上学的探偵小説
本作は形而上学的探偵小説のバリエーションと言えます。
形而上学的探偵小説は20世紀の実験小説の文学ジャンルで、形而上学的思弁とミステリー、サスペンスを合わせたものです。ポー『群衆人間』が先駆とされ、他にも発表時期の早いものにチェスタトン『木曜日の男』などがあります。ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』なども、一部この様式が見て取れます。1930年代から1940年代にかけて、ボルヘス、フラン=オブライエン、ウラジーミル=ナボコフ、フェリペ=アルファウなどのモダニズムが展開され、そうした作家の作品にはこのジャンルとされるもの、ジャンルの生成に寄与した作品がいくつかあります。
さらにあとの時期だとピンチョンのサスペンス色の強い作品のほか、ウンベルト=エーコ『薔薇の名前』が特に有名で、ジョルジュ=ペレック、ポール=オースターもこのジャンルの作家です。
本作も、形而上学的な主題をはらみつつ、伯爵夫人の謎をめぐる陰謀とサスペンスが展開されます。
個人的評価
ただ正直、本作は面白くないです。
まず、蓮實さんはやっぱり映画や小説のことを、単に雑学として知っているばかりでなく、趣味人としても、また研究者としても、「わかっている」人です。ウィリアム=ワイラーとか、マイケル=カーティスとか、実力あるけど、なんか気に入らない監督を腐すときの表現がすごく的確で、やっぱり趣味人としてすごく魅力的な作家だと思います。『凡庸な芸術家の肖像 マクシム・デュ・カン論』などに見える、研究者としての素養も秀でています。
文章も希求力あって、多くの人を魅了しフォロワーを生みました。その一方で、褒める映画(特に新人、新作のアート映画)は微妙なのが多く、結局それはファンにその意図を考察させるためのパフォーマンスとしてのテイストも強いと思います。
ただ、小説家としてはどうだったかというと、さんざん偉そうにしていた割には、いざ小説書いたらそんなにでもなかった澁澤龍彦よりももっと酷いくらいで、とにかくまず読みにくいです。吉田健一、クロード=シモン、中上健次の影響でしょうが改行が少なくて、とにかく読みにくいばかりで、その割には通俗的な内容です。
エロティシズムや言語的遊戯も、全体的にナボコフの劣化版のようで、小説家としての素養は似たような文化的背景をもつ金井美恵子にはるかに劣るものと評価せざるを得ません。
三島由紀夫賞に関しても、作品内容というより、それまでの実績と話題性から与えられた印象で、公募の賞でもないんだし、まあいいんじゃないかな、とも思います。
物語世界
あらすじ
時代は戦前、舞台は主に帝国ホテル。
帝大入試を間近に控えた二朗は、謎めいた伯爵夫人に誘われ、性の昂ぶりを憶えます。そこに従妹の蓬子や和製ルイーズ=ブルックスら魅力的な女たちが現れます。そんななか、背後には開戦の足音が迫ります。
伯爵夫人は、何か国家的陰謀に関わっているともされるも正体は不明で、その正体を探ることには危険が伴うようです。
やがて、二朗が一日の記憶を語った最後、ふと夕刊に目をやると、『帝國・米英に宣戰を布す』の文字があります。今日は昭和十六年十二月八日。すべては目醒めたばかりの二朗が思い出した、一瞬の夢だったのでした。




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