始めに
ピランデルロ『作者を探す六人の登場人物』解説あらすじを書いていきます。
背景知識、語りの構造
ピランデルロの作家性
ピランデルロのキャリアは、故郷シチリアのヴェリスモ(真実主義)から始まりました。ジョヴァンニ=ヴェルガはイタリアにおける写実主義の大家です。ピランデルロは初期において、ヴェルガのような冷徹で客観的な視点から社会を描く手法を学びました。しかし、ピランデルロは後に客観的な真実など存在しないという方向へ進み、この写実主義を内側から解体していくことになります。またルイージ=カプアーナはピランデルロの才能を早くから見出し、作家としての道を進めた恩師的な存在です。
ピランデルロの作品に漂う自己の崩壊というテーマは、当時の新しい科学や哲学と深く結びついています。ベルクソンの生の跳躍や、生は常に流動的であるという考え方は、ピランデルロの生と形式という対立概念の根底にあります。アルフレッド=ビネーはフランスの心理学者で、彼の著書『人格の変化』などは、ピランデルロが人間の中には複数の人格が共存しているという確信を得る大きな助けとなりました。
ピランデルロは自身の創作理論を『ユーモリズム』という論文にまとめていますが、その中で喜劇作家たちを高く評価しています。セルバンテス 『ドン・キホーテ』こそがユーモリズムの極致だと考えていました。滑稽なものを見て笑うだけでなく、その背後にある悲劇性を見出すというピランデルロのスタイルは、セルバンテスから強く受け継いだものです。シェイクスピアの世界は劇場であるというメタ演劇的な構造や、道化の悲哀などに大きな影響を受けています。
ピランデルロはドイツのボン大学で学んだ経験があり、ドイツロマン派の影響も無視できません。テオドール=リップスは美学者で、移入(共感)の理論を学びましたが、ピランデルロはそれを逆手に取り、共感できない自己の他者化を突き詰めました。
メタフィクション
この作品の革新性は、芝居の中で芝居を作るというメタ的な構造です。俳優たちは登場人物を演じようとしますが、登場人物たちから見れば、それは偽物に過ぎません。観客、俳優、劇中劇の登場人物という境界を曖昧にすることで、何が本当の現実なのかという問いを観客に突きつけます。
ピランデルロは、人間には固定されたひとつの自己など存在しないと考えました。人は接する相手や状況に応じて、無数の仮面を使い分けています。劇中の登場人物たちは、特定の悲劇的瞬間に固定されています。彼らにとって、その瞬間の自分こそが唯一の現実であり、他者が定義する自分とのギャップに苦しみます。
劇中で父親が語る有名なセリフに、言葉の限界を示すものがあります。言葉は共通の道具に見えて、実は一人ひとりの主観によって意味が異なります。そのため、完璧な意思疎通は不可能であり、人間は根本的に孤独であるという悲観的な認識が示されています。
物語世界
あらすじ
ある劇場のステージで、演出家と俳優たちがピランデルロの別の芝居を稽古しています。そこへ突如、喪服を着た奇妙な六人の家族が現れます。彼らは「自分たちは、ある作家の頭の中で生み出されたが、途中で見捨てられた登場人物だ」と主張します。そして、自分たちの物語を完結させてほしい、演じさせてほしいと演出家に詰め寄るのです。
渋々彼らの話を聞くことにした演出家の前で、六人(父親、母親、義理の娘、息子、幼い少年と少女)のドロドロとした愛憎劇が語られ始めます。父親はかつて、妻を別の男のもとへ去らせました。月日が流れ、父親は売春宿で一人の若い娘を買おうとしますが、なんとその娘は、かつて別れた妻が愛人との間に作った義理の娘でした。間一髪のところで母親が乱入し、最悪の事態は免れますが、家族は絶望的な再会を果たします。
演出家はこのセンセーショナルな物語を売れると確信し、プロの俳優たちに彼らの役割を演じさせようとします。プロの俳優たちが演じ始めると、それを見ていた登場人物たちは違う、そんなんじゃない、それは偽物だ、と爆笑し、激怒します。
登場人物たちが自分たちの物語を直接演じ始めると、事態は制御不能になります。幼い少女が噴水で溺れ、少年はピストルで自殺してしまいます。それを見た俳優たちはこれは演技だ、いや本当の事件だ、と大混乱。
最後は、これが芝居なのか現実の悲劇なのか分からないまま、演出家が、一日を台無しにされた、と叫んで幕が下ります。




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