始めに
コルタサル『石蹴り遊び』解説あらすじを書いていきます。
背景知識、語りの構造
コルタサルの作家性
ボルヘスはコルタサルの「師」とも言える存在です。言語に対する厳格な姿勢、幻想的なプロットの構築構築などを学びました。またコルタサルはポーの全短編をスペイン語に翻訳し、影響されました。
1950年代にパリへ渡ったコルタサルにとって、フランス文学は自由の象徴でした。ブルトンやジャリのシュルレアリスムから形式主義的実験を継承します。
コルタサルは英語圏の文学にも深く傾倒していました。コルタサルはキーツに関する膨大な評論『キーツの肖像』を書いています。チェスタトンからも刺激を受けました。
タイトルの意味
主人公オラシオ=オリベイラは、常にここではないどこかや世界の中心(キブツ)を探しています。決まりきった日常や、論理だけで構築された世界に対する強烈な違和感が根底にあります。
「石蹴り遊び」という遊び自体が、地上から天国を目指すゲームであるように、彼は到達不能な理想を追い求め、挫折し続けます。
物語は「あちら側(パリ)」と「こちら側(ブエノスアイレス)」に分かれています。パリ編では知的な議論が飛び交いますが、オリベイラは直感的に生きる女性ラ・マガに、自分が持たない生の実感を見出し、嫉妬し、翻弄されます。秩序を求める知性が、いかに生の豊かさを殺してしまうかという葛藤が描かれています。
読書の能動性とコミュニケーションの困難
オリベイラは、言葉で説明すればするほど真実から遠ざかる感覚に陥ります。グリグリッシュという、作中でラ・マガとオリベイラが使う独自の愛の言語は、既存の言語体系を破壊し、新しい意味を創造しようとする試みです。
コルタサルは、ただ受動的に物語を消費する「女性読者(コルタサルの用語)」ではなく、自ら読み方を選び、物語を構成する「共犯者としての読者」を求めました。読者がどの順番で章を読むか選択を迫られる構造自体が、人生の不確定性や世界の多面性を体験させる仕掛けになっています。
物語世界
あらすじ
第1部:あちら側(パリ)
1950年代のパリ。アルゼンチンからやってきた知識人オリベイラは、ウルグアイ人の女性ラ・マガと同棲しています。
オリベイラとマガ、そして友人たちは蛇のクラブと称して夜な夜な集まり、ジャズを聴き、酒を飲みながら、形而上学や芸術について延々と議論を戦わせます。理屈っぽく、頭でっかちなオリベイラは、無邪気で直感的に生きるマガに惹かれつつも、彼女の無知を軽蔑し、愛しきれない自分に苛立ちます。
やがて マガの幼い息子ロカマドゥールが病死するという悲劇が起こります。悲しみに暮れるマガを見捨てるような形になったオリベイラの前から、彼女は突然姿を消してしまいます。
第2部:こちら側(ブエノスアイレス)
マガを失った喪失感を抱えたまま、オリベイラは故郷ブエノスアイレスに帰国します。
彼は旧友のトラベラーとその妻タリタに出会います。オリベイラは、タリタの中に失踪したマガの面影を強く重ねるようになり、奇妙な三角関係が始まります。彼らはサーカス団や精神病院で働きますが、物語が進むにつれ、オリベイラの精神状態は不安定になっていきます。彼は自分がマガを探しているのか、あるいは自分自身を探しているのか分からなくなっていきます。
物語の終盤、精神病院の窓枠に立つオリベイラは、中庭に描かれた石蹴り遊び(レイエラ)の図形を見下ろします。彼が天国(ゴール)へ飛び込むのかは明確にされません。
第三部:「あちらこちらから」
第三部の中心となるのは、劇中に登場する老作家モレッリが書き残した断片的な文章です。読者を混乱させたい、因果関係でつながる古い物語を破壊したい、といった過激な文学理論が展開されます。オベイラたちが蛇のクラブで議論していた小難しい理屈の正体が、ここで明かされます。
また第一部や第二部の出来事を、別の視点から補完するエピソードが含まれています。登場人物たちの過去の回想、些細な会話の断片、あるいは本編の終わりの後に続く、オベイラと友人トラベラー、タリタの奇妙な共同生活の断片が混ざり合います。
ほかにコルタサルがどこからか拾ってきた外部のテキストがそのまま挿入されています。新聞の三面記事、生理学の専門書、哲学者の言葉、詩、広告のキャッチコピーなどが挿入され、オベイラが世界をいかにバラバラなものとして捉えているかを表現しています。
著者の指示通りに「飛び石」のように読み進めると、物語は第131章と第58章の間を無限にループして終わるようになっています。第二部の終わりで、オベイラが窓から飛び降りたのか、踏みとどまったのかは曖昧なままですが、第三部を含めて読むと、彼は終わりのない日常と混乱のループの中に閉じ込められます。そこには明確な完結も救いもなく、ただ石蹴り遊び(天国への階段)を登り続ける試行錯誤だけが残されます。




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