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ジョルジュ=バタイユ『眼球譚』解説あらすじ

ジョルジュ=バタイユ
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始めに

ジョルジュ=バタイユ『眼球譚』解説あらすじを書いていきます。

背景知識、語りの構造

バタイユの作家性

 バタイユにとってニーチェは、単なる哲学者ではなく生き方そのものでした。神なき後の世界で、陶酔や笑い、そして生の過剰を肯定する態度は、バタイユの内的体験の核となっています。


​ またバタイユは、コジェーヴの講義を通じてヘーゲルの主奴の弁証法を学びました。しかし、彼はヘーゲルの完結した体系に収まらない無益な否定性に関心を持ち、そこから独自の至高性という概念をひねり出しました。


​ バタイユはサドの中に、理性の限界を突破するエネルギーを見出し、エロティシズムを哲学的な次元へと押し上げました。ドストエフスキーの特に『地下室の手記』などに漂う、人間の不合理さや深淵に対する洞察に強く惹かれていました。

 ​​マルセル=モース『贈与論』におけるポトラッチ(北米先住民の破壊的な贈与儀礼)の概念は、バタイユに衝撃を与えました。これが、エネルギーをいかに消費するかを説く『呪われた部分』の直接的なヒントになっています。デュルケーム からは「聖」と「俗」の区別について学び、バタイユはそれをさらに過激化させ、不浄な聖という独自の聖性論を展開しました。


​ ブルトンとはシュルレアリスム論争などで対立しましたが、それゆえに彼の影響は多大でした。バタイユはより泥臭く物質的な低次物質主義を掲げました。

侵犯

​ ​この小説の特徴は、ストーリーそのものよりも形の類似によるイメージの転移にあります。作中では「眼球」というイメージが、「卵の黄身」「未熟な果実」「睾丸」「太陽」、さらには「尿」や「精液」といった分泌物へと次々にスライドしていきます。

 通常、これらは全く別の意味を持つものですが、バタイユはこれらを物理的な形の類似によって結びつけることで、日常的な世界の意味を解体し、読者をめまいのような感覚へと誘います。

 社会的なルール、道徳、宗教的な「聖域」をあえて汚し、侵犯することで、人間が普段閉じ込められている理性の枠組みから脱出することを描いています。登場人物たちは、排泄、近親相姦的イメージ、そして最終的な死へと突き進むことで、生身の人間が到達しうる極限の興奮を追い求めます。
​ 

​ バタイユにとって、「エロティシズムは死を肯定することまで含めた生である」という有名な定義があります。 人間は一人ひとりがバラバラな不連続な存在ですが、性交や死の瞬間、その境界線が溶け合い、一種の連続性(宇宙的な一体感)に戻るとバタイユは考えました。


 不潔で冒涜的な描写ばかりですが、バタイユにとってはこれこそが真の宗教的体験に近いものでした。 高潔な神ではなく、内臓、粘膜、排泄物といった低い物質を通じて、理性を超えた圧倒的なエネルギー(聖なるもの)に触れようとする低次物質主義の萌芽が見られます。

物語世界

​ あらすじ

 語り手の「私」と、奔放な少女シモーヌは、思春期の好奇心を遥かに超えた倒錯的な遊びにふけります。 彼らは卵を性的な記号として使い、奇妙な遊びを繰り返します。

 そこに、純真で繊細な少女マルセルが加わります。しかし、シモーヌたちの過激な行為に耐えきれず、マルセルは精神を病み、療養所に収容されてしまいます。


​ 「私」とシモーヌは療養所に忍び込み、マルセルの前でさらに背徳的な行為を繰り広げます。結果として、マルセルは首を吊って自殺してしまいます。


​ マルセルの死後、二人は富豪のイギリス人エドモンド卿を仲間に加え、スペインへと逃亡します。


​ スペインで彼らは闘牛を観戦します。そこで、闘牛士が牛の角に目を突き刺される凄惨な事故と、同時に闘牛の「睾丸」が切り取られる光景を目の当たりにします。ここで、「眼球=卵=睾丸」というイメージが彼らの中で一つに結びつきます。


​ セビリアの教会で、彼らは司祭ドン=アミナードを拘束し、究極の冒涜行為に及びます。絶頂の中で司祭は死に、シモーヌは彼の死体から眼球を摘出します。彼女はその眼球を自らの身体の一部へと挿入し、文字通り「見る」という行為と「性」を一体化させるという、狂気的な聖化に到達します。


 ​すべてをやり遂げた彼らは、エドモンド卿の用意したヨットに乗ってジブラルタルから海へと消えていきます。

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