始めに
ウィルキー=コリンズ『月長石』解説あらすじを書いていきます。
背景知識、語りの構造
コリンズの作家性
コリンズにとって最大の友であり、ライバルであり、編集者だったのがディケンズです。二人は深い親交があり、ディケンズの雑誌”Household Words”などでコリンズは執筆していました。
イギリスの歴史小説家であるスコットも、コリンズの物語作りに影を落としています。コリンズは、スコットが描くような過去の因縁が現代に影を落とすというロマン主義的な構成を継承します。
コリンズはフランス文学にも精通しており、特にバルザックのリアリズムやウジェーヌ=スクリーブの「よく練られた戯曲(Well-made play)」の技法を、小説の構造に取り入れました。
他にジェイムズ=フェニモア=クーパーからも影響されました。
語りの構造と偽善の風刺
この小説の特徴は、複数の登場人物による手記という形で物語が進むことです。誰一人として事件の全貌を把握しておらず、各自が自分の偏見や記憶違い、都合の良い解釈で語ります。真実は一つであっても、それを見る人間の主観によって全く別の姿に見えるという、認識の限界が描かれます。
物語の火種は、イギリス軍人がインドの寺院から聖なる石を略奪したことにあります。略奪された宝石がイギリス国内の家庭に持ち込まれ、平穏を破壊していく様子は、当時の大英帝国が他国を侵略し、奪ってきたことに対する潜在的な恐怖と罪悪感を象徴しています。
ヴィクトリア朝の偽善
当時のイギリス社会は高潔さや道徳を重んじていましたが、物語ではその裏側が暴かれます。育ちの良い紳士やレディが、実は借金、薬物依存、愛欲といった問題を抱えています。宝石が消えたことで、登場人物たちが守ろうとしていた体面(レスペクタビリティ)が崩壊していく過程が描かれており、社会の偽善を鋭く批判しています。
インドの呪いという超自然的な噂と、カフ部長刑事による論理的な捜査が対比されます。 最終的には、医学的な知識という科学的な視点が謎を解く鍵となります。迷信や偏見に惑わされず、客観的な事実と科学によってのみ真実に到達できるという、近代的な理性の勝利が描かれます。
物語世界
あらすじ
18世紀末、インドでの戦乱の最中、イギリスの将校ヘルンカスル代将が、ヒンドゥー教の聖地から「月長石(イエローダイヤモンド)」を略奪します。この石には持ち主に災いをもたらすという呪いがあり、三人のバラモン僧が密かに奪還を狙っていました。
数十年後、代将の遺言により、この宝石は姪のレイチェル=ヴェリンダーの18歳の誕生日に贈られることになります。
ヨークシャーの屋敷で誕生祝宴が開かれたその夜、厳重に保管されていたはずのダイヤモンドが忽然と姿を消します。カフ警部という名探偵が呼ばれますが、調査は難航。主役のレイチェルはなぜか激しく怒り、捜査への協力を拒みます。レイチェルを愛する従兄のフランクリン・ブレイクも必死に犯人を捜しますが、屋敷の住人や使用人、さらには屋敷周辺をうろつくインド人の手品師たち全員に疑いの目が向けられ、一家はバラバラになってしまいます。
事件から一年後、物語は急展開を迎えます。フランクリンは驚くべき事実を知ります。レイチェルが捜査を拒んでいたのは、フランクリン本人が宝石を盗む現場を目撃していたからだったのです。しかし、フランクリンには盗んだ記憶が全くありません。彼は自身の潔白を証明するため仮説にたどり着きます。「自分はあの日、知らないうちにアヘンを摂取させられ、夢遊病で宝石を持ち出したのではないか」と。
医師の助手エズラ=ジェニングズは、事件の夜にフランクリンが医師によって本人の知らないうちにアヘンを飲まされていたことを突き止めます。フランクリンはアヘンによる無意識の状態で、レイチェルを心配するあまり、自ら宝石を持ち出し、別の場所へ移そうとしていたのです。
では、その宝石はどこへ行ったのか。実験によって、フランクリンがアヘンの朦朧とした状態で、屋敷にいたもう一人の従兄、ゴドフリー=エイブルホワイトに宝石を手渡していたことが判明します。
ゴドフリー=エイブルホワイトは聖人君子を装っていましたが、実は莫大な借金を抱え、愛人を囲う放蕩息子でした。アヘンで朦朧としたフランクリンからこれを預かってくれと宝石を渡された彼は、それを幸運なチャンスと捉え、そのまま着服したのです。
最後、ゴドフリーは借金返済のために宝石を換金しようとしますが、ずっと追跡していたインド人の僧侶たちに先を越されます。彼はロンドンの安宿で窒息死させられ、変装用のカツラを剥ぎ取られた無残な姿で発見されました。
月長石はインドへと運ばれ、本来あるべきヒンドゥー教の神像の額へと戻されます。イギリスの家庭を崩壊させた帝国の略奪品が、ようやく元の場所に収まります。




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