始めに
ジャック=ロンドン『マーティン・イーデン』解説あらすじを書いていきます。
背景知識、語りの構造
ロンドンの作家性
ジャック=ロンドンは、当時の最先端の科学や哲学からも影響を受けました。
チャールズ=ダーウィンは進化論を通じて、生物が環境にいかに適応するかという視点を与えました。ハーバート=スペンサーの社会進化論からも刺激を受けました。
フリードリヒ=ニーチェの超人思想的な個人主義からも影響があります。同時にロンドンは熱心な社会主義者でもあり、労働者の過酷な現実を描いた『どん底の人びと』や、ディストピア小説の先駆け『鉄の踵』には、マルクス的な階級闘争の視点が生きています。
キプリングの簡潔で力強い文体や、動物を主人公にする手法からも影響を受けました。スティーヴンソンのロマン主義からも感化があります。
ブルジョワ社会の偽善
この物語の皮肉なテーマは、世間は人間そのものではなく、その人間が纏っている属性しか見ていないという絶望的な真実です。
マーティンが血を吐くような思いで書いていた時には誰も見向きもしなかったのに、一度成功すれば、かつて彼を拒絶した人々が手のひらを返して称賛します。彼はその遅すぎた称賛に、救いではなく、吐き気を催すような欺瞞を感じてしまいます。
マーティンは愛のために猛烈に勉強し、超人的な知性を手に入れます。しかし、知識を得れば得るほど、彼はかつての労働者仲間の単純さには戻れなくなり、同時に、上流階級の教養が実は借り物の中身のないものだということにも気づいてしまいます。
闘争の果てに
マーティンはニーチェやスペンサーの影響を受け、自分の力だけで高みへ登ろうとする強固な個人主義者として描かれます。しかし、彼は社会や他者との繋がりを軽視し、自分一人の力だけで美や真理に到達しようとした結果、頂上で待っていたのは完全な空白でした。彼を支えていたルースへの愛という幻想が崩れたとき、彼にはもはや生きるための足場がどこにも残っていなかったのです。
どれほど知性を磨き、洗練された振る舞いを身につけても、結局のところ彼は成り上がりの船乗りとしてしか見られませんでした。ルースが象徴するブルジョワジーの価値観がいかに偏屈で、真の芸術や魂の叫びに対して無理解であるかという批判も大きなテーマの一つです。
物語世界
あらすじ
粗野な船乗りだったマーティン=イーデンは、ある日、暴漢から救った青年を通じて上流階級のモース家を訪れ、そこで出会った令嬢ルースに心を奪われます。彼女の住む世界の美しさと知性に圧倒された彼は、自分もその場所にふさわしい人間になろうと決意し、寝る間も惜しんで独学を開始します。文法も知らない状態から哲学、社会学、文学を猛烈に吸収し、やがて彼は作家として自分の思想を世に問う道を選びます。
しかし、現実は過酷でした。書けども書けども送られてくるのは不採用通知ばかりで、蓄えは底をつき、服を質に入れ、空腹に耐えながら執筆を続けます。ルースは彼の努力は認めつつも、その芸術的な野心を理解できず、安定した事務職に就くことを強要します。周囲の人間も彼を「夢想家」と蔑み、唯一の理解者であった皮肉屋の詩人ブリッセンデンも、社会への絶望から自ら命を絶ってしまいます。
やがてルースとの関係も、彼の評判を恐れた彼女の父によって引き裂かれ、マーティンは完全に孤立します。ところが、彼が生きる意欲を失いかけたその時、皮肉にも過去に不採用だった作品が次々と評価され、彼は一夜にして時代の寵児となります。かつて彼を門前払いした人々がこぞって食事に招き、別れたはずのルースまでもが彼の名声に引き寄せられるように戻ってきます。
しかし、マーティンの心はすでに死んでいました。世間が称賛しているのは今の成功した自分であって、命を削って作品を書いていた本質の自分ではないのでした。そう悟った彼は、自分を追い詰めた社会の浅薄さに耐えがたい嫌悪感を抱きます。
金も名声も、かつて切望した教養も、すべてが砂のように空虚なものに変わり、彼は南洋へと向かう船に乗ります。しかし、航海の途中で彼は夜の海へと身を投げます。深海へと潜り続け、肺に水を満たし、自らの意志でその輝かしい、しかしあまりに虚しい生涯を終わらせようとしたのでした。




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