始めに
ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』解説あらすじを書いていきます。
背景知識、語りの構造
ジョイス『ユリシーズ』の影響
本作はジョイス『ユリシーズ』の影響が顕著です。
モダニズム文学はT=S=エリオットの『荒地』などを皮切りに、フォークナー(『アブサロム、アブサロム!』『響きと怒り』)、ジョイス(『ユリシーズ』)、三島由紀夫(『奔馬』)、大江健三郎(『万延元年のフットボール』『取り替え子』)など、神話的象徴の手法を取り入れるようになりました。これは神話の象徴として特定の対象が描写され、新しい形で神話や特定の対象が発見される機知が喚起する想像力に着目するアプローチです。『ユリシーズ』では冴えない中年の広告取りレオポルド=ブルームを中心に、ダブリンの1904年6月16日を様々な文体で描きます。タイトルの『ユリシーズ』はオデュッセウスに由来し、物語全体はホメロスの『オデュッセイア』と対応関係を持っています。テレマコスの象徴となる青年スティーブン=ディーダラス、オデュッセウスの象徴としてのレオポルド=ブルーム、ペネロペイアの象徴としての妻モリーのほか、さまざまな象徴が展開されます。
また『ユリシーズ』では全18話において各々パロディという形でさまざまなジャンル、作家のスタイルが導入されています。この語りの構造は『フィネガンズ・ウェイク』でさらにラディカルに展開されていきます。またこうした要素は村上春樹作品(『風の歌を聴け』)、ピンチョン作品(『重力の虹』)、クノー(『文体練習』)、伊藤整、ナボコフ(『ロリータ』)に継承されていきます。このようなさまざまな作家、ジャンルのパロディを展開することで、現実世界における言語的多様性を抱えつつ営まれる実践の再現を試みているとも解釈できます。トウェイン『ハックルベリ=フィンの冒険』の如く、方言などの多様なスタイルでもって綴られる作品世界は現実世界の再現として捉えられます。また認知言語学、記号学的な発想を汲み取ることができ、つまるところ各々の言語、作家のスタイル、ジャンルというのは積み上げられた歴史の集積物で、歴史的蓄積の中で構築された各々の言語の(メタファー、レトリックなどに見える)全体論的デザインや歴史的実践の中での変遷に着目するのがソシュール以降の記号学や認知言語学と言えますが、ジョイスやそれ以降のモダニストの他言語、ジャンル、作家パロディの実践はその歴史性へのコミットメントでありその中での合理性や機知の発現と評価できます。
語りの構造
語りは基本的に異質物語世界で進み、文法的にはオディパを外から描写しています。語りの焦点はほぼ常にオエディパの知覚・推論・感情の内部に貼り付いていて、彼女が知らないことを語り手が補足してくれる場面はほとんどなく、読者が得られる情報は、ほぼ彼女が遭遇し、理解し、あるいは誤解したものに限られます。
たとえば中心的なモチーフのトリステロが実在するのか、陰謀なのか、オディパの妄想なのかについて、語り手は一切判断を下しません。オディパが意味を見出す瞬間を、語り手は否定も肯定もせずに描きます。
オイディプス神話
本作はオイディプス王神話をもとにします。以下はそのあらましです。
テーバイの王ラオスと妃イオカステは、デルポイの神託から「生まれてくる子は父を殺し、母と交わるだろう」と告げられます。息子が生まれると、予言を恐れたラオスは赤ん坊の足首に釘を打ち込み(ここから「腫れ足=オイディプス」という名が生まれる)、捨てさせます。しかし牧人に拾われ、コリントス王ポリュボスと妃メリベアの養子として育てられます。
成人したオイディプスは、自分の出生に疑念を抱き、神託を求めます。すると「父を殺し母と交わる運命」と告げられ、養父母を本当の両親だと思っていた彼は、それを避けるためコリントスを離れます。そしてテーバイへ向かう道中、見知らぬ老人(実の父ラオス)と口論になり、彼を殺してしまいます。
テーバイを悩ませていた怪物スフィンクスの謎かけを解いたオイディプスは英雄として迎えられ、未亡人の王妃イオカステと結婚し、王となります。これが母との婚姻です。
疫病に苦しむテーバイで神託を仰いだ結果、災厄の原因は「父殺し・母婚の罪」にあると判明。やがて真実が明るみに出ると、イオカステは自害し、オイディプスは絶望して自らの目を潰し、放浪の身となります。
作品は運命の悲劇と父殺しの悲劇を描き、真理によって破滅するオイディプスを描きます。
オイディプス神話のパロディ
本作はオイディプス神話のパロディで、主人公の名前がオディパ=マースで、それになぞらえた名前です。ただ父殺しのテーマよりも、アイデンティティと認識の不安定さに着目する象徴と言えます。
オイディプス神話では、世界は原理的に解かれるべき謎として構造化されています。都市に災厄が起きるのには必ず原因があり、神託は曖昧であっても嘘はつかず、理性的探究を突き詰めれば真理に到達できます。オイディプスが破滅するのは、理性が過剰だったからではなく、理性が正確だったからです。探究は成功し、だからこそ主体が耐えきれない真理に直面します。
『競売ナンバー49の叫び』では、この前提が最初から裏切られています。オディパ=マースは、世界に散在する徴候をつなぎ合わせ、背後にあるはずの秩序や因果を探ろうとします。その態度自体は、まさにオイディプス的だし、彼女の推論も一つ一つ見れば破綻していません。しかし、そこでは探究の先に真理があるという保証が、もはやどこにも存在しません。
音の出ない郵便ラッパは、その象徴です。郵便ラッパは本来、意味が送られ、届き、理解されるという秩序の徴ですが、それが「ミュート」されているということは、神託やロゴスの声が沈黙しているということです。謎はあるが、それが解かれることを前提とした謎なのか非自明です。スフィンクスはそこにいるが、もう問いを発していないのです。
オディパの探究は、進めば進むほどオイディプス神話からズレていきます。手がかりは増えるのに、確信は強まるのに、決定的瞬間だけが訪れません。最後に待っているのは啓示ではなく、タイトルにもある競売がなされる直前という宙吊りの時間です。ここで物語は、オイディプス的解決を拒否して終わります。
この点でこの小説は、神話のパロディであると同時に、近代的理性や解釈主体への風刺でもあります。世界がもはや神話的に閉じていないにもかかわらず、人はなお、オイディプスのように意味と真理を信じています。その信念自体が、この作品では宙に浮いたまま描かれます。
『競売ナンバー49の叫び』がやっているのは、オイディプス神話の単純な転用ではなく、神話が失効したあとにも生き残ってしまったオイディプス的主体の戯画化といえます。真理に至れないのは、そもそも真理が非自明な世界で、なお神話的に振る舞おうとするからです。オイディプス神話は運命と真理による悲劇でしたが、本作はあるのかどうかもわからない誰かの意思の介入を事象の背後に見出し、真理はどこにも確証がなく、永遠に真相に到達することのない主体の悲劇を描くパロディと言えます。オイディプスは運命と真実に滅ぼされましたが、オディパにはそれすら与えられないのです。
物語世界
あらすじ
1960年代半ば、オディパ=マースは、舵取りのないラジオパーソナリティで麻薬中毒者のムーチョ=マースとのつまらない結婚生活や、患者にLSDを投与しようとする常軌を逸したドイツ人心理療法士ヒラリウス博士とのセッションにもかかわらず、北カリフォルニアの村でそれなりに快適な生活を送っています。
ある日、オディパは、ロサンゼルス地域出身の莫大な富と権力を持つ不動産王で元恋人のピアース=インヴェラリティが死亡し、彼女が遺産執行人に指名されたことを知ります。オディパは、インヴェラリティの弁護士で元子役のメッツガーに会いに行き、二人の関係が始まります。
この情事に魅了された地元のティーンエージャーのロックバンドであるパラノイズは、二人を盗み見するようにつけまわします。バーで、オディパは「WASTE」というラベルが付いた消音の郵便用ホーンの落書きシンボルに気づき、秘密郵便サービスを利用していると主張する右翼の歴史家で郵便制度の批評家であるマイク=ファロピアンと話をします。
インヴェラリティはマフィアと繋がりがあり、忘れ去られた第二次世界大戦のアメリカ兵の骨を木炭としてタバコ会社に密売しようとしていたことが判明します。パラノイドの友人の一人は、この出来事が最近見たジャコビアン時代の復讐劇『クーリエの悲劇』を強く思い出させると言います。
興味をそそられたオディパとメッツガーは、劇中で「トリステロ」という名前が短く言及されているその劇を観劇します。終演後、オディパは演出家で主演のランドルフ=ドリブレットに近づくものの、ドリブレットは珍しい名前について彼女の質問をはぐらかします。
郵便ラッパのシンボルを走り書きしている男を目撃したオディパは、マイク=ファロピアンと再会し、彼から陰謀を疑っていると告げられます。この噂は、インヴェラリティの個人切手コレクションに隠されていた、消音された角笛のシンボルの透かし模様が発見されたことで裏付けられます。
このシンボルは、18世紀ヨーロッパの郵便独占企業トゥルン=アンド=タクシスの紋章の、控えめな表現をしたものと思われます。トゥルン=アンド=タクシスは、あらゆる反対勢力を抑圧しました。その中には、敗北したものの地下組織に追いやられた可能性のある競合郵便サービス、トリステロ(またはトリステロ)も含まれていました。オディパは、沈黙の象徴性に基づき、トリステロは目的不明の反社会的な秘密結社として存在していると考えています。
彼女は『クーリエの悲劇』の古い検閲版を調べ、ドリブレットが「トリステロ」のセリフを挿入することを意図的に選択したことを裏付けます。彼女は超能力を持つとされる機械を通して答えを探すものの、成果は得られません。
ベイエリアを熱心にさまよううちに、音の出ない郵便ラッパのシンボルがあちこちで現れます。ついにゲイバーで名も知らぬ男が、そのシンボルは失恋した人々のための匿名の支援グループを象徴しているだけだと教えてくれます。オディパは、普通のゴミ箱に偽装された「WASTE」(後に「We Await Silent Tristero’s Empire(静かなトリステロの帝国を待ち受ける)」の頭文字であることが示唆される)と書かれた郵便受けを人々が参照したり使用したりするのを目撃します。
それでもなお、オディパは妄想に陥り、トリステロは実在するのか、それとも一連の誤った関連性を考えすぎているだけなのかと自問します。
自分の正気を案じたオディパは、ヒラリウス博士を急遽訪ねるものの、博士は正気を失い、銃を乱射しながら、ブーヘンヴァルトでのナチスの研修医だった日々について狂ったようにわめき散らします。
オディパは警察に協力して博士を制圧するものの、帰宅すると、夫のムーチョがLSD中毒になり正気を失っています。オディパは『運び屋の悲劇』について英語の教授に相談し、ランドルフ=ドリブレットが謎の自殺をしたことを知り、トリステロは妄想なのか、歴史的陰謀なのか、それともインヴェラリティが死ぬ前に仕組んだ手の込んだ悪ふざけなのか、苦悩します。
オディパはインヴェラリティの所持品のオークションに行き、郵便ラッパのシンボルが付いた切手コレクションを含むロット49の入札を待ちます。ある特定の入札者が切手に興味を持っていることを知った彼女は、その人物がトリステロの代表者であるかどうかを調べたいと考えるのでした。




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