はじめに
笙野頼子『二百回忌』解説あらすじを書いていきます。
語りの構造、背景知識
フェミニズムとモダニズム
笙野頼子アヴァン=ポップ作家と自称し、藤枝静男、内向の世代などを参照しつつ、モダニズム的な作風を志向しました。
傾向的にはアンジェラ=カーター、ル・グウィンなどと重なり、幻想文学的なモチーフをフェミニズム的テーマと絡めて展開する、私小説的な作風が特徴です。
モダニストであるヴァージニア=ウルフなどもフェミニストで、ジェンダー的テーマを孕んだ『オーランドー』という幻想文学作品もものしましたが、本作などもフェミニズム的テーマのモダニズム、幻想文学作品です。
第二波以降のフェミニズム
笙野頼子は最近はトランスジェンダーへの差別的な発言により物議を醸していますが、フェミニズムの作家です。
第二波フェミニズム以降では、ボーヴォワール『第二の性』などが知られるように、本質主義的なセックス、ジェンダーへの見通しから離れて構築主義的な、慣習によってつくられる性的アイデンティティに着目し、そうした慣習の妊む不正義や差別を糾弾するような視座が形成されていきました。
「個人的なことは政治的なこと」というスローガンに象徴されるように、個人的な経験とそれによって構成される社会および政治構造との関連を問題にし、日常に潜む性差別について可視化していこうとしてしました。
そうしたなかで、言語を用いた実践における無意識の性差別も可視化されるようになっていき、過去の文学のキャノンもフェミニズムからの倫理的挑戦を受けることがありました。
またそうしたモードを踏まえつつ、笙野頼子は言語や言語による創作である小説に潜む性差別を意識的に批判しようとしていき、本作もそのような精神に裏付けられています。
本作は南部ゴシックやゴシック文学ジャンルを参照にしつつ、伝統的慣習に潜む不正義を風刺します。
南部ゴシック
本作はフォークナー(『アブサロム、アブサロム!』『響きと怒り』)のようなアメリカ文学を代表するジャンルである南部ゴシックやゴシック文学の日本版のような内容です。またその延長線上にあるガルシア=マルケスやリョサのマジック・リアリズム作品を連想させる内容です。
南部ゴシックはゴシック文学のロケーションをアメリカ南部に移したジャンルで、これはホーソン(『緋文字』)、メルヴィル、トウェイン、ポー(『アッシャー家の崩壊』)などのアメリカのゴシック文脈を先駆とします。南部という保守的風土のなかでの悲劇を描くジャンルですが、本作も同様です。
本作は語り手の私が故郷の特異な習わしへの参加を通じて、無意識に内在化してしまっているコミュニティの因習を相対的に描きます。
二百回忌
二百回忌に死んだ祖先が甦り法事に参加する特殊な家に生まれ育った「私」は、すでに親とは絶縁しているものの、祖母に会ってみたいため出席を決めます。
「私」も、二百回忌に死者が甦ってくるのは他の家庭ではないと知るのは、成長してからのことでした。私は二百回忌に惹きつけられ、そして故郷の習わしを無意識に所与のこととして内在化してしまっています。
因習のなかに身を置くことで、それがあたり前に透明なものになってしまって、不条理なことでもそれとわからなくなってしまう、という描写を通じて、第二波以降のフェミニズムが糾弾しようとするような、選好や信念、認識を歪める伝統という権力の不正義を風刺します。
「死者の復活」がもたらすドタバタのプロットは、ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』を連想させます。
物語世界
あらすじ
二百回忌に死んだ祖先が甦り法事に参加する特殊な家に生まれ育った「私」。すでに親とは絶縁しているものの、祖母に会ってみたいため出席を決めます。
「私」も、二百回忌に死者が甦ってくるのは他の家庭ではないと知るのは、成長してからのことでした。
二百回忌の期間は、時間も空間も歪む奇跡が起こるものの、そられをすべて「めでたい」こととしなければならないしきたりです。親との関係を絶って都会に猫と住んでいる主人公ですが、二百回忌に惹きつけられるものがあります。
二百回忌に集った人たちは、年の数だけ輪にしたトンガラシを湯に入れた「トンガラシ汁」を飲み、生死不明の親戚たちと、意味が通じない話をします。
宴の後で私は帰宅し、普段の日常に戻りますが、故郷での習慣がそこでも表れてしまうのでした。




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