始めに
谷崎『過酸化マンガン水の夢』解説あらすじを書いていきます。
背景知識、語りの構造
形式主義的実験(フランス文学、象徴主義、永井荷風『ふらんす物語』『あめりか物語』)
谷崎潤一郎は、モダニスト、前衛文学作家としての優れた手腕があります。谷崎は仏文学、象徴主義文学にその源流を負うところが大きく、また同様の背景を持つ永井荷風を一人の文学的師としています。本作品の手法も荷風『ふらんす物語』『あめりか物語』の形式主義的実験を踏まえるものです。
荷風『ふらんす物語』『あめりか物語』は、荷風の最初期の作品で、留学経験を踏まえた紀行文や枠物語などの小説作品を含んだ、形式主義的実験のスタイルが見えます。荷風のこれらの作品でも、等質物語世界の、作者の分身たる主人公の一人称的経験の記述がしばしば展開されますが、谷崎『吉野葛』はそれを受け継ぐものです。
コンラッド『闇の奥』における語りの実験が西洋のモダニスト(フォークナー、T=S=エリオット)を育てたように、谷崎というモダニストを育てたのは永井荷風と言って良いでしょう。荷風『あめりか物語』『ふらんす物語』に見える豊かな語り口は、『卍』『春琴抄』『蘆刈』『吉野葛』における『闇の奥』のような枠物語構造、『響きと怒り』『失われた時を求めて』のような『盲目物語』『過酸化マンガン水の夢』における一人称視点のリアリズム的手法などとして昇華されています。
また盟友の芥川龍之介も、『藪の中』『地獄変』など形式主義的実験を展開し、そこからの刺激もありました。また横光、川端のモダニズムも間近で経験しました。
シュルレアリスムの影響
本作はシュルレアリスムの影響が顕著です。
シュルレアリスムの画家サルバドール=ダリ(「記憶の固執」)は、「偏執狂的批判的方法」と呼ばれる制作手法を考案しました。これは妄想や強迫観念を相対化して、それを美学的再現のレベルに落とし込む手法です。妄想やや夢遊の状態を批判的に認識して、それを表現にフィードバックしようと図るメソッドでした。
『過酸化マンガン水の夢』はまさにそのような方法によって展開されています。
語りの構造
谷崎の分身の「予」を語り手にする、自伝的作品です。
八時の電車で十一時に熱海の別荘に帰りますが、食べすぎて体調も悪くなり、夜に隣に眠る老妻のうめき声に目を醒まし、睡眠薬ラボナ一錠とアダリン二錠を飲んで、半覚半睡になります。予はこの朦朧とした状態を楽しみ、最初は半ば意識しながら幻想が結ばれては消えるのを楽しむうち、いつしか本当の夢につながっていきます。
こうした夢や半覚醒状態における妄想や空想が物語の中で連鎖的に展開していき、映像的なモンタージュを繰り広げていきます。
映画的モンタージュ
シュルレアリスムは新しい芸術である映画と連動して展開していき、ダリも映画『アンダルシアの犬』の撮影などに協力しています。
国内でも、こうした動きにならってモダニストの横光利一、川端康成らが協力して、衣笠監督『狂った一頁』が手掛けられました。また川端の『水晶幻想』や横光『蝿』など、シュルレアリスムから影響されたモダニズムの作家の作品においては、映像的なイメージのモンタージュの手法が見られます。
モンタージュとは、2つの異なるものを見せることによって違った意味を生み出すという映画に普遍的なアプローチですが、本作も語り手の意識の流れの中で、連鎖的にイメージが展開されていき、その思いも寄らないモンタージュが印象的な内容になっています。
物語世界
あらすじ
語り手の予は、夏の暑い日に家人と女中を伴って、熱海から東京へストリップを見にいきます。予は春川ますみという若い娘が気に入るのでした。
次の日はシモーヌ・シニョレ出演の「悪魔のような女」を見て旅館で休憩し、八重洲口の辻留で食事し、鱧も食べます。
八時の電車で十一時に熱海の別荘に帰りますが、食べすぎて体調も悪くなり、夜に隣に眠る老妻のうめき声に目を醒まし、睡眠薬ラボナ一錠とアダリン二錠を飲んで、半覚半睡になります。
予はこの朦朧とした状態を楽しみます。最初は半ば意識しながら幻想が結ばれては消えるのを楽しむうち、いつしか本当の夢につながっていきます。フロイドの「夢判断」などはどんな風に説明してあるか分からないものの、予は或る程度までは自分で自分の夢を予覚し、時には支配さえも出来るように感じます。
夏の夜、食べすぎた老作家は睡眠薬で混濁したまま、辻留で食べた鱧を考えます。鱧がまだ胃袋の中で暴れているように思います。鱧の真っ白な肉から、浴槽のなかで体を洗っていた春川ますみの連想が浮かびます。
また谷崎は朝食にレッドビーツを好んで食べるため、水洗トイレの水が赤く染まることがありました。その赤い色に染まった水洗の水に浮かんだ便の幻想が浮かびます。紅色の線が排泄物からにじみ出て、周辺の水を淡い過酸化マンガン水のように染ます。
今夜はその糞便がシモーヌ・シニョレの顔になったり、漢の高祖の愛妾、威夫人が高祖の死後、正妻の呂后に手足を切断され眼をくりぬかれ耳も聞こえず喉も焼かれ厠に投げこまれ「人豚」と呼ばれましたが、その手足のない威夫人に大便が変容します。
過酸化マンガン水の溶液の中の四肢を失った肢体を眺めていると傍らに呂太后が立っており、浮遊している物体は人豚であることを告げます。
自分がいつの間にか孝恵帝になっているところで夏の早暁、作家は眼を醒まします。
参考文献
・小谷野敦『谷崎潤一郎伝 堂々たる人生』(中央公論社.2006)
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