始めに
アルフレッド・テニスン『イーノック・アーデン』解説あらすじを書いていきます。
背景知識、語りの構造
テニスンの作家性
テニスンは、一世代前のロマン派詩人たちの感性を引き継ぎ、それを洗練させました。テニスンの絵画的な描写スタイルは、キーツから最も強い影響を受けています。 少年時代のテニスンにとって、バイロンは絶対的なアイドルでした。自然に対する深い洞察と、精神的な平穏を求める姿勢において、テニスンはワーズワースを師として仰いでいました。
テニスンはケンブリッジ大学で学び、古典の素養が非常に深かったため、古代の詩人たちのリズムやテーマを巧みに取り入れました。ホメロス、ウェルギリウス、テオクリトスから影響されました。
ヴィクトリア朝時代に巻き起こった中世回帰の波の中心にテニスンはいました。トマス=マロリー『アーサー王の死』は、テニスンの傑作『国王牧歌』の直接的な種本となりました。中世の騎士道精神を、当時の道徳観と結びつけて再解釈しました。ダンテ『神曲』における死と再生、魂の遍歴というテーマは、親友の死を悼んで書かれた『イン・メモリアム』の構成に影響を与えています。
ミルトン『失楽園』における無韻詩の巧みな使い方は、テニスンが自身の詩法を確立する上での教科書となりました。
イーノック=アーデンの決断
この作品の最大のテーマは、主人公イーノックが下す沈黙という決断にあります。難破し、絶海の孤島で10年を過ごして帰還した彼が目にしたのは、死んだと思われていた自分に代わり、親友フィリップと再婚して幸せに暮らす妻アニーの姿でした。自分の存在を明かせば、アニーを重婚の罪と混乱に陥れ、彼女の今の幸福を破壊してしまいます。イーノックは愛ゆえに死ぬまで名乗らないことを神に誓い、孤独の中で死を選びます。
肉体的には敗北ですが、精神的には気高い勝利を収めるという、ヴィクトリア朝的な聖人君子の理想像が描かれています。
運命の非情
テニスンは、人間の意志ではどうにもならない時の流れの無情さを描いています。あと少し早く帰っていれば、あるいはあの日海に出なければ。こうしたもしもが通用しない現実の厳しさがあります。10年という歳月は、家も、街も、そして愛する人の心も変えてしまいます。イーノックは浦島太郎的な疎外感を味わうことになります。
テニスンらしいテーマとして、人間の営みに無関心な自然が挙げられます。イーノックが取り残された島は美しく描写されますが、それは同時に人間を拒絶する過酷な楽園でもあります。海は富をもたらす場であると同時に、愛する人々を永遠に引き裂く怪物として描かれています。当時のイギリス社会において家庭は神聖な場所でした。働き手であるイーノックを失った家庭がいかに困窮し、いかにして別の形で再生するかという、当時の社会的な不安と救済を反映しています。
物語世界
あらすじ
イギリスの静かな漁村に、3人の子供がいました。貧しい漁師の息子イーノック、風車小屋の主人の息子フィリップ、そして村で一番美しい少女アニーです。二人の少年はアニーに恋をしますが、アニーが選んだのは、勤勉で力強いイーノックでした。二人は結婚し、3人の子供を授かり、幸せな家庭を築きます。
幸せな日々は長くは続きませんでした。イーノックは仕事中の事故で大怪我を負い、家計が困窮してしまいます。家族を養うため、彼は幼い子供たちとアニーを残し、中国へ向かう商船の航海士として遠い海へと旅立ちます。必ず成功して帰ってくる、という言葉を残して。
しかし、帰路でイーノックの船は難破してしまいます。仲間が次々と命を落とす中、イーノックだけが生き残り、絶海の孤島に漂着します。そこは美しいトロピカルな島でしたが、人間は彼一人。彼は家族を想い、神に祈りながら、孤独の中で10年もの歳月を過ごすことになります。
一方、村ではイーノックの消息が途絶えてから何年も経っていました。アニーは生活に困窮し、末の子供を亡くしてしまいます。そんな彼女を長年支え続けたのが、幼馴染のフィリップでした。
アニーはイーノックは生きているはずと信じて待ち続けますが、ついに諦め、フィリップの誠実な求婚を受け入れます。二人は再婚し、新たな家族として幸せに暮らし始めます。
ある日、偶然通りかかった船に救助され、イーノックは奇跡的に故郷の村へ帰り着きます。しかし、彼が目にしたのは、かつての自分の家が空き家になっている姿でした。宿屋の女主人から事情を聞いた彼は、夜、こっそりとフィリップの家を覗きに行きます。
窓越しに見えたのは、フィリップ、アニー、そして立派に育った自分の子供たちが、温かな灯火の中で幸せそうに笑い合っている姿でした。
イーノックは悟ります。自分が今名乗り出れば、今の彼らの幸福は一瞬で崩れ去り、アニーは罪の意識に苦しむことになる。彼は自らの存在を明かさないことを決意し、独り静かに立ち去ります。そして貧しい宿屋で正体を隠したまま働き、死の直前に初めて女主人のミリアムに真実を話し、自分が死んだ後で、アニーにだけは伝えてくれ、と言い残して息を引き取ります。




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