始めに
アップダイク『金持ちになったウサギ』解説あらすじを書いていきます。
背景知識、語りの構造
モダニズムの作家
アップダイクはモダニズムの作家です。ナボコフ、ジョイスなどから特に影響を受けました。
アップダイクが文体の手本としたのがウラジーミル=ナボコフです。言葉そのものの響きや、視覚的なディテールへの執着から影響を受けています。
プルーストも、 過去の記憶、感覚の細かな再現、そして失われゆく時間への哀愁や意識の流れの手法などに影響しています。
またニューイングランドの伝統を継ぐ作家として、ホーソーンを強く意識していました。アップダイクはホーソーンの『緋文字』を現代風に再構築した「スカーレット・レター三部作」を執筆したりしています。
ジョイスからも大きな影響を受けています。特にジョイスの『ユリシーズ』に見られる、意識の流れや都市生活の断片的な描写は、アップダイクに影響しています。
ほかにアップダイク作品の根底にある「信仰と疑念」というテーマは、デンマークの哲学者キェルケゴールと、スイスの神学者カール=バルトの影響があります。
新古典主義、神話的象徴の手法
モダニズム文学はT=S=エリオットの『荒地』などを皮切りに、フォークナー(『響きと怒り』)、ジョイス、三島由紀夫(『奔馬』)、大江健三郎(『万延元年のフットボール』『取り替え子』)など、神話的象徴の手法を取り入れるようになりました。これは神話の象徴として特定の対象が描写され、新しい形で神話や特定の対象が発見される機知が喚起する想像力に着目するアプローチです。
アップダイクの先駆のジョイス『ユリシーズ』では冴えない中年の広告取りレオポルド=ブルームを中心に、ダブリンの1904年6月16日を様々な文体で描きます。タイトルの『ユリシーズ』はオデュッセウスに由来し、物語全体はホメロスの『オデュッセイア』と対応関係を持っています。テレマコスの象徴となる青年スティーブン=ディーダラス、オデュッセウスの象徴としてのレオポルド=ブルーム、ペネロペイアの象徴としての妻モリーのほか、さまざまな象徴が展開されます。
ウサギシリーズも同様に、神話的象徴の手法を展開します。聖杯伝説的なウサギの探求と、不毛な荒地としてのアメリカの歴史を展開します。
ジョイスのエピファニー
アップダイクの先駆のジョイスは、美学においてエピファニーという発想を提唱しました。これは、「平凡な瞬間の中に、対象がふとした瞬間に見せるその本質の顕れ」のことです。ジョイスはイプセン(『民衆の敵』『人形の家』)という戯曲作家のリアリズムからの影響が顕著で、エピファニーの発想にも、それが手伝っています。
本作も、同様にエピファニー的な発想のもと、デザインされています。本作が描くのは、日常の平凡な一瞬ではありますが、そこには何か対象の本質が見え隠れします。
ウサギの繁栄と没落
1979年、ウサギ(46歳)は義父から継いだトヨタの代理店を経営し、オイルショックの影響で燃費の良い日本車が爆発的に売れたおかげで、かつてない富を手にしています。
彼はカントリークラブの会員になり、贅沢な暮らしを謳歌します。前作までのハングリー精神や精神的な渇望は、今や物や金への執着に置き換わっています。物質的には満たされているものの、彼の内面には相変わらず得体の知れない空虚さが横たわっています。
40代後半になったウサギは、自分の肉体の衰えや、周囲の人々の死を強く意識し始めます。彼は鏡を見て自分の腹が出てきたことを嘆き、かつての愛人や知人が老い、あるいは死んでいく様子を目の当たりにします。老いへの恐怖を打ち消すように、彼はスワッピングなどの性的な刺激にのめり込みます。これは生の証を必死に確認しようとする、中年のもがきでもあります。
息子とアメリカ
大学を中退して戻ってきた息子ネルソンとの関係が、物語の大きな軸となります。ネルソンは、若き日のウサギと同じように無責任で、女を妊娠させ、逃げ出そうとします。ウサギは自分の鏡を見ているような息子を嫌悪し、激しく衝突します。ウサギにとって、成長した息子は自分の座を脅かす存在であり、同時に自分の老いを突きつける存在でもあります。
物語の背景には、イラン人質事件やオイルショックによる、アメリカの自信喪失があります。大排気量のアメ車が売れず、効率的な日本車が街を席巻する様子は、かつての最強国家アメリカの衰退を象徴しています。ウサギがアメリカの衰退(日本車の普及)によって金持ちになったという事実は、彼の成功が多分に幸運で、砂上の楼閣のようなものであることを示唆しています。
かつて風のように走っていたウサギは、富と脂肪と責任という重荷を背負い、走れない男になりました。金持ちになってもなお、彼は本当の安らぎを得られません。孫娘の誕生という新たな生命の到来で物語は終わりますが、それは彼が老人という、死に一歩近いステージへ強制的に押し上げられたことも意味しています。
物語世界
あらすじ
46歳になったウサギは、亡くなった義父の跡を継ぎ、ペンシルベニア州でトヨタの販売代理店を経営しています。
ガソリン価格の高騰により、燃費の良い日本車が飛ぶように売れ、彼はカントリークラブに通う地元の名士となっていました。10年前の混乱が嘘のように、妻のジャニスとも安定した関係を築いています。
そこへ、ケント州立大学を中退した息子ネルソンが、妊娠中の恋人プルーを連れて戻ってきます。ウサギは自分に似て無責任で甘ったれた息子を激しく嫌悪し、ネルソンもまた、成金趣味で説教臭い父親を軽蔑します。ウサギはネルソンを仕事に関わらせたくありませんが、ジャニスと義母の圧力に負け、しぶしぶ彼を雇い入れます。
ウサギは、第1作で別れた愛人ルースが、実は自分の娘を産んで育てているのではないかという疑念に取り憑かれます。町で見かけた若い娘が自分の面影を持っていると思い込み、彼女のあとをつけたり、ルースの家を遠くから監視したりします。これは、老いゆく彼が自分の純粋な分身を必死に探そうとする、奇妙で切ない現実逃避でもありました。
物語のクライマックスは、友人夫婦たちと出かけたカリブ海旅行です。開放的な空気の中、ウサギたちはスワッピングを行います。ウサギは念願だった友人の美しい妻シンディと一夜を共にしますが、期待していたような万能感は得られず、むしろ自分たちの肉体の衰えと、虚飾に満ちた生活を再確認する結果に終わります。
家に戻ると、ネルソンは相変わらずトラブルを起こしており、プルーとの結婚生活も破綻しかけています。しかし、ついにネルソンの娘ジュディが誕生します。
ラストシーンで、ウサギは赤ん坊を腕に抱きます。彼は孫娘の温もりを感じながら、また一つ、自分がこの世から押し出される準備が整ったことを悟ります。新しい命の誕生は、彼にとっての死へのカウントダウンの始まりでもありました。



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