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パワーズ『幸福の遺伝子』解説あらすじ

リチャード=パワーズ
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始めに

パワーズ『幸福の遺伝子』解説あらすじを書いていきます。

背景知識、語りの構造

パワーズの作家性

 ピンチョンはよく比較される作家です。システム理論、科学技術、世界を覆う巨大なパターンを追う姿勢は、ピンチョンの『重力の虹』などの系譜を継いでいます。​ウィリアム=ガディスにおける情報の過剰さと、現代社会の断片化を捉える手法からも影響が見られます。パワーズの代表作『黄金虫変奏曲』の形式的実験はジョイスの『ユリシーズ』の影響を伺わせます。言葉遊び、多重構造のパズル、そして細部へのこだわりにおいて、ナボコフの影響が見て取れます。


​ ​またメルヴィル、ソロー、ホイットマンのロマン主義、自然への関心、形式的実験からも感化が見えます。

幸福の科学と哲学

​ 幸福とは単なる脳内の化学反応であり、遺伝子の組み合わせに過ぎず、もし幸福のスイッチがあるなら、それを操作して人類を苦痛から解放すべきだという科学のスタンスがまずあります。​人間や文学の視点からは、幸福とは、苦しみや悲しみを乗り越えた先にある経験であり、個人の物語であって、遺伝子で最初から決まっているなら、人生にどんな意味があるのかという問いが描かれます。


​ ​物語の中に登場する科学者カートンは、単なる治療ではなく、人間をより良く作り変える強化を肯定します。​もしうつや不安を遺伝子レベルで消し去ることができたら、​それは素晴らしい進化なのか、それとも人間らしさの死を意味するのかを描きます。


​ ​ヒロインのタッサは、その圧倒的な善意と明るさゆえに、メディアによって消費されてしまいます。​現代社会は常に前向きであることを強要しますが、それが逆に個人を追い詰める様子が描かれます。​世界一幸せな女の子というレッテルを貼られた瞬間、彼女の純粋な幸福は、世間の好奇心という不純物に汚染されていくのです。

 ​主人公のラッセル=ストーンが創作の講師であることは重要です。​科学は人間をデータとして記述しようとしますが、文学は人間を物語として記述しようとします。​パワーズは、科学がどんなに進化しても、人間の複雑さや割り切れなさを表現するには物語が必要であることを、小説という形式そのものを使って証明しようとしています。

物語世界

あらすじ

 シカゴの大学で創作実習の講師を務めるラッセル=ストーンは、クラスの中に異彩を放つ一人の女子大生を見つけます。アルジェリアからの難民であるタッサ=アムズウォーです。彼女は、内戦で家族を失うという悲惨な過去を持ちながら、常に溢れんばかりの輝きと、底抜けの幸福感を漂わせていました。その異常なまでの幸福体質に驚いたラッセルは、大学のカウンセラーであるキャンディスに相談します。


​ ​物語は、野心的な遺伝子科学者トーマス=カートンが登場することで大きく動き出します。ラッセルたちを通じてタッサの存在を知ったカートンは、彼女を詳しく調査した結果、彼女が幸福を感じやすい特殊な遺伝子を持っていることを突き止めます。​幸福を遺伝子レベルでコントロールできるという発見は、メディアを熱狂させ、タッサは一夜にして世界一幸せな少女として時の人となってしまいます。


​ ​タッサの平穏な日常は、商業主義とメディアの過熱によって崩壊していきます。幸福を技術として提供しようとするカートンですが、遺伝子操作による幸福の均一化に疑問を呈する人々も多いです。タッサは観察対象として晒され、自らの幸福さえ疑わざるを得なくなります。


​ メディアの執拗な追及と幸福の象徴としての重圧に耐えかねたタッサは、ついに精神的なバランスを崩してしまいます。世界一幸せな遺伝子を持つと定義された彼女が鬱状態に陥り、自殺未遂を図るのです。​彼女の幸福感は、遺伝子という設計図だけによるものではなく、彼女自身の感性や環境との相互作用によるものでした。しかし、それが数値化され、商品化の対象となった瞬間に、彼女から真の幸福は失われてしまいました。


​ ​タッサは一命を取り留めた後、公の場から姿を消します。自分の特別な遺伝子というレッテルを捨て、一人の人間として静かに生きる道を選びます。


​ カートンはタッサというサンプルを失っても、全く挫折しません。相変わらず、テクノロジーが人間を救うと信じ、遺伝子操作による人類のアップグレードを追求し続けます。​ラッセルとキャンディスは タッサを救えなかった後悔を抱えつつも、自分たちの人生を歩み始めます。


​ ​物語の最後に、これまで客観的にストーリーを語っていた存在が、実はこの物語を書いている作家本人であることが明かされます。この物語自体が、ある種の遺伝子操作のようなもので、科学者が遺伝子を組み替えて理想の人間を作ろうとするように、作家もまた言葉を組み合わせて物語を作り、読者に希望を与えようとしたのでした。

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