はじめに
大江健三郎『芽むしり仔撃ち』解説、あらすじを書いていきます。
語りの構造、背景知識
左翼的行動主義
大江健三郎は思想的には左翼的なもので、サルトルやオーデンに倣って積極的な政治へのコミットメントが見える一方、硬直化した理想主義がもたらす弊害(具体的には新左翼の暴走)に対しては複雑な心境を抱いているのがキャリアの中で伺えます。
本作も象徴的なストーリーですが、少年たちが自由を謳歌するものの、村長に懐柔されて「転向」していく姿が描かれます。
「飼育」では、大人の不正義に懐柔され、その不正義な共同体の一員である「大人」になってしまう主人公を描きましたが、本作の主人公は最後まで抗い、「大人」になった仲間たちから追放されます。
転向と理想の破綻
大江健三郎は初期から現実参画を訴え、オーデンの訳詞からタイトルをとった『見るまえに跳べ』に見えるように、直感的な政治へのアクションを実践していきました。
なので大江健三郎の政治への知識や考察というのはどうしても浅薄なのですが、その一方で政治的なコミュニティ一般と連続的なカルト(新左翼のような)への懸念は一貫してあるのと、理想主義の限界や破綻への憂慮もずっとあって、「転向」のモチーフも重要なテーマとなっていきます。
例えば『キルプの軍団』でも、伊丹十三がモデルのキャラクターの原さんが左翼運動で恐らくは他者を殺めたことなどから転向していて、その後も新左翼に復帰を要請されて付け狙われます。ここではむしろ転向のほうが肯定的に描かれています。『燃え上がる緑の木』などにも見えますが、大切なのはセクトのような組織ではなく、個人や理想、正義であることから、組織を離れ個人として正義を希求しようとする形での転向は、大江も肯定的に解釈していると感じます。
本作における他の少年たちの転向は、偏に不正義におもねることにすぎませんが、『キルプの軍団』における転向は、セクトの抗争やその実践のエスカレートから距離をおき、自分の内なる悪と向き合い不正義と戦おうという形での正義です。そのため本作における僕の戦いと、イズムとしては共通です。
フォークナーの影響。南部ゴシック
フォークナー(『アブサロム、アブサロム!』『響きと怒り』)は大江健三郎の好きな作品ですが、本作もフォークナーなどの南部ゴシックのパロディになっています。
南部ゴシックとは南部の封建的な因習や文化の残る土地の中での実践を描く作品で、代表格はフォークナーで、それに先駆けてポーやホーソン、メルヴィルのゴシック文脈があります。国内では深沢七郎(『楢山節考』)や中上健次(三部作[1.2.3])が日本版南部ゴシック、ゴシックを展開しました。
本作で南部ゴシックにより長編デビューを果たした大江健三郎ですが、その後も四国愛媛の故郷を南部ゴシック的な世界として展開していくのでした。
物語世界
あらすじ
太平洋戦争の末期、感化院の少年たちは山奥の村に集団疎開します。村で少年たちは強制労働を課されるものの、疫病が発生したので村人は他の村に避難し、唯一の出入り口でのトロッコは封鎖され、少年たちは村に閉じ込められます。やがて子供たちは、自然の中で生を得て祭を催します。
少年たちは自由を謳歌するものの、村人たちが戻って来て、座敷牢に閉じ込められます。村長は村での少年たちの行動を教官に通達しないかわりに、村人たちはいつも通りの生活を送っていて疫病も流行していなかったことにしろという取引を強要します。少年たちはやがて次々と村長に屈服します。
最後まで村長に抵抗した「僕」は村から追放されます。
参考文献
小谷野敦『江藤淳と大江健三郎』(筑摩書房)




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