始めに
ウラジーミル・ソローキン『青い脂』解説あらすじを書いていきます。
背景知識、語りの構造
ソローキンの作家性
ソローキンにとって、古典作家は崇拝の対象というよりは、解剖するための標本です。トルストイの重厚なリアリズム文体は、ソローキンが最も頻繁にパロディの対象にするものです。ツルゲーネフの『散文詩』や貴族的な文体は、ソローキンの初期短編集において美しい物語が突如として肉体的な暴力や排泄物に崩壊するための土台として使われました。ドストエフスキーの思想性や宗教的な熱狂も、ソローキンの風刺対象です。
ソ連時代に育ったソローキンにとって、ゴーリキーに代表される社会主義リアリズムのプロパガンダ的文体は、最大の攻撃対象であり、同時に創作の源泉でした。 意味が空文化したソ連の政治的スローガンや公用語を、彼は物理的な肉体やグロテスクなイメージに変換することで、その虚無を暴き出しました。
ソローキンは文学界だけでなく、70〜80年代のアンダーグラウンド・アートの文脈から強く影響を受けています。イリヤ=カバコフは現代美術家であり、ソローキンの盟友です。ソ連的な日常のゴミをアートにするカバコフの手法は、ソローキンが文体のゴミを文学にする手法と密接にリンクしています。エリック=ブラートフの視覚芸術におけるソッツ=アート(ソ連版ポップアート)からも、記号としての言葉を扱う感性を引き継いでいます。
人間の肉体やタブーを徹底的に描く姿勢において、サド、バロウズの影響が見て取れます。
タイトルの意味
タイトルは中心的なモチーフである「青い脂(ゴルボエ・サロ)」という物質です。2039年のロシアでは、ドストエフスキーやトルストイ、ナボコフといった文豪のクローンが作られ、彼らに小説を書かせています。彼らが執筆に没頭し、特有の文体が生じると、その肉体に青い脂が蓄積されます。ソローキンはここで、文学を精神的なものから生物学的な分泌物へと引きずり下ろしました。名作とは魂の叫びではなく、特定の文体から生成される単なるエネルギー源に過ぎない、という冷徹な視点です。
ロシアにおいて、19世紀の古典作家は預言者や聖人のように崇められてきました。ソローキンはこの聖域を徹底的に破壊します。本物ではなくクローンに「偽物の名作」を書かせることで、オリジナルが持つ権威を無効化します。作中では、クローンたちが書いた偽のドストエフスキー風文学などが延々と綴られますが、それらは本物そっくりでありながら、どこか不気味で空虚です。
歴史、ネーションの混乱
物語の前半、未来のロシアではロシア語に中国語が混ざり合った奇妙なスラングが使われています。ロシアという国家のアイデンティティが、将来的に東方の巨大な文化に飲み込まれていくという予見的な恐怖と皮肉が込められています。意味よりも響きや物質感を重視するソローキンの言語観が、このハイブリッド言語によく表れています。
物語の後半では、手に入れた青い脂を使って1954年の過去へ遡り、歴史が書き換えられます。現実の歴史では敵対したヒトラーとスターリンという独裁者二人が、この小説の中では協力関係にあります。歴史上の独裁者たちをグロテスクでエロティックな、あるいは滑稽なキャラクターとして描くことで、歴史という大きな物語さえも、作家が捏造できるフィクションに過ぎないことを暴いています。
物語世界
あらすじ
舞台は2039年のシベリア。ある秘密研究施設で、驚くべきプロジェクトが進行しています。ドストエフスキー、トルストイ、ナボコフ、パステルナークといったロシア文学の巨匠たちがクローンとして再生されています。彼らに小説を書かせると、その執筆プロセスに伴って、彼らの体内に「青い脂(ゴルボエ・サロ)」という特殊な物質が蓄積されます。この青い脂は、熱力学の法則を無視し、絶対零度でも凍らず、莫大なエネルギーを秘めた究極の物質です。
物語の前半は、未来の奇妙な中国語混じりのスラングで綴られ、クローンたちが書いた偽の古典文学のテキストが延々と挿入される、極めて実験的な構成です。
この青い脂を狙って、「大地を愛する者たち(ゼムレヨーブィ)」という過激なカルト組織が研究所を襲撃します。彼らは奪った青い脂を、時空を超えて過去へと送り込みます。目的は、ロシアの歴史を根底から書き換えることでした。
舞台は一転して1954年のモスクワへ。しかし、私たちの知る歴史とは全く異なります。独裁者スターリンと、彼と同盟を結んだヒトラーが健在で、ヨーロッパを分割統治しています。スターリンとその側近たちは、エロティックで野蛮、かつ奇怪な儀式に明け暮れています。
未来から送り込まれた青い脂が、この時代のスターリンの元に届きます。この物質を手にしたことで、現実の境界線が崩れ始め、物語はさらに悪夢のような超現実へと突入していきます。
最後は、言語そのものが解体され、意味をなさない音の連なりやイメージの奔流へと溶け去っていきます。歴史も、肉体も、文学も、すべてが青い脂という特異点の中でドロドロに混ざり合い、消滅していくような幕切れを迎えます。




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