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アイリス・マードック『海よ、海』解説あらすじ

アイリス・マードック
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始めに

 アイリス・マードック『海よ、海』解説あらすじを書いていきます。

背景知識、語りの構造

マードックの作家性

 マードックの思想の根底にあるのは、善への探求です。プラトンは彼女にとって最も重要な哲学者です。洞窟の比喩に代表される真理への上昇や、美を通じて善へと向かうプロセスは、彼女の小説の核心的なテーマです。シモーヌ=ヴェイユの「注意(Attention)」という概念(自己を捨てて対象をありのままに見る努力)は、マードックの倫理学の柱となりました。彼女はこの概念を道徳的成長の鍵としています。​


 マードックは、実験的なモダン小説よりも、19世紀の伝統的なリアリズム小説の構造を愛しました。ドストエフスキー、トルストイ、オースティンなどの影響が顕著です。またプルーストの影響もあります。


​ ​マードックは、英語圏で最初にサルトルについての本格的な研究書『サルトル:ロマン主義的な合理主義者』を書いた人物でもあります。彼女は実存主義に魅了されつつも、最終的には人間は自由すぎて孤独な存在であるとするサルトルの人間観を自己中心的であるとして批判的に乗り越えようとしました。


​ ​マードックはケンブリッジ大学でウィトゲンシュタインの講義を受けており、個人的な親交もありました。言語の限界や、語りえぬものに対する沈黙といった彼の哲学は、彼女の作品における沈黙や誤解のテーマに影響を与えています。

理想と現実

 ​主人公のチャールズ=アロビーは、引退した演劇界の巨匠です。彼は自分の人生を演出することに慣れすぎており、日記の中でも自分を美化し、都合の悪い真実を無意識に書き換えます。人間はいかにして自分に都合の良い物語を作り上げ、現実から目を背けるか。


​ ​かつての初恋相手ハートリーと再会したチャールズは、彼女を不幸な結婚から救い出すという名目で、強引に自分の世界に引き込もうとします。しかし、彼が愛しているのは現在の彼女ではなく、自分の記憶の中に閉じ込めた過去の偶像に過ぎません。相手を一人の人間として見ず、自分の所有物や幻想として扱うことの暴力性が描かれます。


​ ​タイトルにもなっている海は、単なる背景以上の役割を持っています。 海は穏やかで美しい反面、飲み込まれたら命を落とす凶暴さを秘めています。チャールズがどんなに自分の人生をコントロールしようとしても、海は決して彼の思い通りにはなりません。人間の知性や意志を超えた、圧倒的で無慈悲な現実そのものです。

 ​チャールズは演劇という虚構の世界で生きてきましたが、隠居生活の中で魔法を捨てて、より高い精神性に到達しようともがきます。しかし、彼の自意識がそれを邪魔します。芸術家が抱える虚栄という呪縛と、そこから脱して真の善にたどり着くことの難しさが描かれます。

物語世界

あらすじ

 ​物語は、主人公チャールズ=アロビーの日記という形式で進みます。演劇界で名声と権力を手中に収めてきたチャールズ=アロビーは、60代で引退を決意します。彼はロンドンの喧騒を離れ、海辺の荒れ果てた一軒家シュラフ・エンドを購入しました。彼の目的は、質素な食事を楽しみ、日記を書き、静かに善き人として余生を過ごすことのはずでした。


​ ​ある日、チャールズは近所の村で、少年時代の初恋の女性ハートリーと偶然再会します。純粋で美しく、チャールズの魂の片割れだった少女でした。いまはすっかり年老い、冴えない外見になり、嫉妬深い夫と暮らす平凡な主婦です。


 ​普通なら思い出は思い出のままにとなるところですが、チャールズの演出家としてのエゴが爆発します。彼は、彼女が不幸な結婚生活に縛られており、自分こそが彼女を救い出す王子様であるという物語を勝手に作り上げてしまいます。


​ ​チャールズは、嫌がるハートリーを自分の家に連れ込み、半ば監禁に近い状態で説得を試みます。そこに、彼の過去を知るかつての愛人たちや、演劇仲間の友人たちが次々と現れ、事態はさらに混沌としていきます。さらに、不思議な力を持つ従兄弟のジェームズが登場し、チャールズの傲慢さと対照的な精神性や死の影を落とします。


​ ​チャールズの執着は、ある悲劇的な溺死を招き、彼の構築した救済の物語は無残に崩壊します。ハートリーは結局、彼のもとを去り、夫と共に遠くへ消えてしまいます。後に残されたのは、荒れ狂う海と、自分がいかに独善的で、他者の現実を見ていなかったかという痛切な自覚だけでした。

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