始めに
ジャン・ジロドゥ『トロイ戦争は起こらない』解説あらすじを書いていきます。
背景知識、語りの構造
ジロドゥの作家性
ジロドゥは高等師範学校でドイツ文学を専攻しており、この時期に触れたドイツ文学が彼の想像力の基礎となりました。ジャン=パウルはジロドゥが卒業論文のテーマに選んだ作家です。ジャン=パウルの持つ奇抜な比喩、ユーモア、夢想的な文体は、ジロドゥ特有の文体にダイレクトに受け継がれています。ノヴァーリスは象徴的な「青い花」に代表される、目に見える世界と目に見えない世界の境界を曖昧にする感性が、ジロドゥの劇作に影響を与えています。クライストは運命に翻弄される人間像や、その背後にある悲劇性と優雅さのバランスにおいて影響が見られます。
フランス人としての伝統的な教養も影響しています。ジロドゥはラシーヌを深く崇拝していました。簡潔でありながら心理的な深淵を描き出す古典劇の形式は、彼の戯曲の構造に影響を与えています。また言語そのものの音楽性や、日常的な言葉を詩的な次元に引き上げるマラルメの象徴主義的な言語感覚は、ジロドゥの源泉の一つです。
ジロドゥは多くのギリシャ神話を現代劇としてリメイクしました。ソポクレス、エウリピデスらの悲劇のテーマを借りつつ、ジロドゥはそこに現代的なアイロニーと対話を加えました。『トロイ戦争は起こらない』や『エレクトル』などは、古典への深い造詣と、それに対する彼なりの「批評的回答」と言えます。
運命悲劇
ジロドゥはこの作品で、戦争を目覚めてしまった虎に例えています。主人公ヘクトルは、戦争を回避するためにあらゆる妥協と理性的努力を尽くしますが、些細な偶然や他者の悪意、あるいは運命という目に見えない力によって、平和への道は次々と塞がれていきます。人間がどんなに知恵を絞っても、神々の台本は変えられないという絶望感が描かれています。
物語のクライマックスであるヘクトルらトロイ側とオデュッセウスらギリシャ側の対話は名シーンです。二人は共に戦争の愚かさを知る理性的な指導者であり、対話によって一度は平和の合意に達します。
戦争風刺
しかし、個人の理性がどれほど一致しても、集団の熱狂やナショナリズム、そして言葉の誤解がそれを台無しにします。外交がいかに脆いものであるかを浮き彫りにしています。劇中には、戦争を経験しないくせに名誉や美を語って戦争を煽る人々が登場します。詩人デモコスは戦争を詩的な美学にすり替え、民衆を煽動します。老人たちは美しいヘレネを見るために若者を死地に追いやることを厭わない老人たちの姿を通じ、戦争の本質的な醜悪さと、それを覆い隠すレトリックの危うさを批判しています。
戦争の原因とされる美女ヘレネですが、実はパリスとの間に真実の愛があるわけではありません。ヘレネ自身、自分が何を見ているのか、何をしたいのかも判然としない空虚な象徴として描かれています。中身のない理由(ヘレネ)のために、決定的な破滅が訪れるという不条理さが、この悲劇をより際立たせています。
物語世界
あらすじ
物語は、トロイの王子ヘクトルが勝利の遠征から帰還するところから始まります。彼は戦争の虚しさを痛感しており、妻アンドロマケの妊娠もあって平和を何より切望していました。
しかし、トロイには不穏な空気が流れていました。弟のパリスがギリシャ王妃ヘレネを誘拐してきたことで、ギリシャ軍が彼女の奪還を求めて迫っていたのです。
ヘクトルは、戦争を避けるためにあらゆる手を尽くします。ヘレネをギリシャに返そうと説得しますが、パリスは執着がなくとも返せば面目が潰れると渋ります。ヘクトルはヘレネ本人にも詰め寄りますが、彼女は未来が見えると言いながら、そこに映るのは燃えるトロイだけだと告げます。
トロイの老人たちや詩人デモコスは、ヘレネの美しさに心酔し、名誉のために戦うべきだと戦争を煽ります。ヘクトルは彼らの好戦的なレトリックを一つずつ論破していきます。
ついにギリシャの使者、知将オデュッセウスが到着します。緊迫した空気の中、二人の指導者は一対一で対峙します。二人は互いの知性を認め合い、戦争がいかに愚かであるかを理解し合います。そして、ついにヘレネを返し戦争を回避するという奇跡的な合意に達します。
平和が守られたかに見えたその瞬間、最悪の事態が起こります。酔っ払ったギリシャの軍人アヤックスがトロイの女性を侮辱したとして、煽動家である詩人デモコスが民衆を煽り立てます。ヘクトルは平和を邪魔させまいと、騒ぎ立てるデモコスを突き殺します。
しかし、瀕死のデモコスは最後の力を振り絞り、「ギリシャ人に殺された!」と嘘の叫び声を上げます。
この嘘を信じたトロイの民衆は激昂し、ギリシャ軍に襲いかかります。平和の象徴として閉ざされていた戦争の門が、ヘクトルの絶望をよそにゆっくりと開いていきます。
カッサンドラは「詩人は死んだ。今や、ミューズのものとなったのは、我らではなく、向こう側の男だ」と吐きます。




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