始めに
ブレヒト『アルトゥロ・ウイの興隆』解説あらすじを書いています。
背景知識、語りの構造
ドイツ表現主義
ブレヒトはドイツ表現主義を代表する作家です。フランク=ヴェーデキント、ゲオルク=ビューヒナー、エルヴィン=ピスカトールなどからの影響が大きく、全体的にリアリズム、バロックな発見的機知などをそこから継承します。
加えて、マルクス主義からの影響が大きく、テーマ性はそこからの影響が大きいです。
叙事演劇
ベルトルト=ブレヒトは叙事演劇を提唱しました。これは複数芸術である演劇において、具体的な事例を成立するプロセスに関する演出理論です。複数芸術とは、ビデオゲームや演劇など、観客の直接の経験となる事例の創造になんらかの手続きを必要とし、また事例が複数ありうる芸術ジャンルです。それと対照的なのが事例が一つに固定された単数芸術で、小説、映画、絵画、彫刻など多くの芸術をはらむものです。
そして、ブレヒト叙事演劇は演劇において戯曲や演出に対して俳優が抱く違和感や態度を、演出に取り入れようとするものと言えます。
ブレヒトの叙事演劇は、俳優が与えられた役になりきるのではなくて、それに対する違和感や相対的な意識を演技に取り入れ、それによって観客の側にも、周知の存在が新しいかたちで発見されたり伝統的なあり方を問い直されるという効果(=異化)を生むことにありました。
本作も、そのようなコンセプトで、論争的なテーマをはらんでいます。
ファシズム批判
この劇の原題には “aufhaltsame”(阻止可能な) という言葉が入っています。これが最大のテーマです。
ヒトラー(劇中のウィ)の台頭は、決して避けられない運命や歴史の必然ではなく、周囲の人間がしかるべき時に動けば止められたはずのものだった、とブレヒトは主張しています。 劇中では、政治家や実業家が臆病であったり、目先の利益を優先したりした隙を突いてウィがのし上がっていく様が描かれます。
ブレヒトはマルクス主義的な視点を持っており、ファシズムを資本主義が危機に陥った時に現れる暴力的な形態と捉えていました。劇中では、国家の興亡がカリフラワーの売買という卑近なビジネスに置き換えられています。既得権益を持つ実業家たちが、自分たちの利益を守るためにギャングであるウィを利用し、最終的には逆に彼に飲み込まれていくプロセスを描いています。
ウィが演説の仕方や歩き方を落ちぶれた役者から教わるシーンがあります。独裁者の威厳やカリスマ性は、内面から湧き出るものではなく徹底的に計算された演技や演出に過ぎないということを暴露しています。 プロパガンダがいかに滑稽で、かつ効果的に人々を欺くかを皮肉たっぷりに描いています。
ウィは街に平和と秩序をもたらすという名目で暴力を振るいます。混乱を鎮めるという大義名分を掲げ、民主的な手続きを暴力で上書きしていく恐怖を描いています。ブレヒトはこの劇の最後に、ウィ(ヒトラー)という怪物は死んだかもしれないが、彼を生み出した社会構造や人間の弱さは消えていない、という強烈なメッセージを残しています。
物語世界
あらすじ
物語の舞台は、1930年代のシカゴ。カリフラワーの市場を支配する実業家たちの物語として進みます。
シカゴのカリフラワー・トラストは不況で窮地に立たされていました。彼らは市から補助金を得るため、清廉潔白で名高い老政治家ドッグズボロー(ヒンデンブルク大統領がモデル)を抱き込み、不正な融資を受けさせます。
小悪党のギャング、アルトロ=ウィ(ヒトラーがモデル)はこの不況と政治腐敗に目をつけます。彼は当初、トラストに用心棒として自分を売り込みますが、相手にされません。しかし、彼はドッグズボローの不正を掴み、それをネタに彼らを脅し、強引に食い込んでいきます。
ウィは、自分に欠けている品格や威厳を身につけるため、落ちぶれた役者を雇います。歩き方、座り方、演説の仕方を徹底的に教わります。ここで、私たちがよく知る独裁者のポーズが完成していきます。
ウィは、自分の邪魔をする者を次々と消していきます。自分の権力を強めるために自作自演の倉庫放火事件を起こし、無実の者を裁判にかけて処刑します。ドイツ国会議事堂放火事件がもとです。
勢力が拡大すると、かつての右腕だった親友ローマ(レームがモデル)を裏切り、惨殺します。長いナイフの夜事件が元。
シカゴを完全に手中に収めたウィは、隣町シセロ(オーストリアがモデル)の野菜市場も手に入れるべく、反対派を暗殺。最終的にシセロの人々を脅し、圧倒的な支持を得て、独裁者として君臨します。
劇の最後、役者がマスクを脱いで観客に直接語りかけます。「諸君、あの男は死んだ。だが、奴を生んだ腹は、まだあたたかい」と。




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