始めに
グレアム=グリーン『権力と栄光』解説あらすじを書いていきます。
背景知識、語りの構造
グリーンの作家性
グレアム=グリーンはカトリックの中間小説的作家です。その精神的な柱となったのがフランスの作家モーリアックです。 モーリアックはキリスト教の中心には罪人がいるという視点で人間を描きました。聖人ではなく、救いがたい罪人の中に神の慈悲があるというグリーンの逆説的な信仰観は、モーリアックの影響が見えます。
グリーンはマージョリー=ボウエン『ミラノの毒蛇(The Viper of Milan)』を読んだグリーンは悪が勝利し、完璧な裏切りが成功する結末に衝撃を受けました。ここから主題について影響をうけました。
グリーンはヘンリー=ジェイムズの写実主義、スティーブンスンのロマン主義にも刺激されました。またスパイ小説やリアリズム要素などはコンラッドからの影響があります。
聖人の物語。国家と栄光の対立
物語の主人公は、名前すら与えられない「ウイスキー司祭」です。彼は大酒飲みで、情事によって隠し子もいる、カトリックの戒律から見れば失格者です。彼は自分を救いようのない罪人だと自覚しています。しかし、逃亡生活の中で、彼は死の危険を冒してまで病人に洗礼を授け、死にゆく者の告白を聞き続けます。司祭がどれほど堕落していても、彼が行う儀式の有効性は変わらないというカトリックの教義が背景にあります。汚れた器の中にも、神の恩寵という宝は宿るのです。
司祭は最終的に捕らえられ、処刑されます。世俗的な視点では彼は敗北者であり犯罪者ですが、彼の死はその土地に信仰の火を絶やさないための殉教となります。国家(権力)は司祭を殺せても、人々の心にある目に見えない何か(栄光)を消し去ることはできない、という結末がタイトルに込められています。
物語世界
あらすじ
1930年代のメキシコ、徹底した反宗教政策下にあるタバスコ州を舞台にした逃亡劇です。
メキシコの革命政権は宗教を禁止し、司祭には結婚して還俗するか、処刑かという過酷な選択を迫っていました。他の司祭たちが棄教したり逃げ出したりする中、唯一残ったのが主人公の「ウイスキー司祭」です。彼は酒に溺れ、かつての過ちで隠し子までいる不徳な男でしたが、追い詰められながらも、農村を転々として洗礼やミサを行い、人々の信仰を繋ぎ止めていました。
彼を追うのは、若く、禁欲的で、革命の理想に燃える警部(中尉)です。彼は宗教は民衆を惑わす毒だと信じ、貧しい人々を救うために教会の影響力を排除しようとします。
司祭を誘き出すため、警部は村々で人質を取り、司祭を差し出さなければ村人を処刑するという非情な手段に出ます。司祭は自分のせいで罪のない人々が犠牲になることに苦しみ、深い罪悪感と自己嫌悪に苛まれます。
ボロボロになりながらも、司祭はついに州境を越え、宗教が許されている安全な隣の州へと逃げ延びます。そこでは清潔なベッドと食事があり、命を脅かされることもありません。
しかし、そこへ混血児(メスティーソ)の男が現れます。彼は司祭を密告しようとしている裏切り者でしたが、司祭に「山を越えたところで、指名手配中のアメリカ人の強盗が死にかけている。彼は司祭に告白をしたがっている」と告げます。
司祭は、これが罠であることを本能的に察知します。しかし、罪人の魂を救うのが自分の義務であるという、ただ一点の責任感から、彼は安全を捨てて死地へと戻る決意をします。
案の定、司祭は捕らえられます。独房の中で彼は、かつての自分がいかに高慢だったか、そして今の自分がいかに無力な罪人であるかを噛み締めます。
処刑の朝、司祭は自分は神の手ぶらな僕だ。もっとうまくやれたはずなのに、という深い後悔の中で死んでいきます。しかしその失敗した人生の背後に、気高い聖性が宿っていました。
司祭が処刑された後、町に一人の少年が現れます。彼はそれまで司祭をだらしない男と軽蔑していましたが、彼の死を知り、密かにやってきた新しい別の司祭を家のドアを開けて迎え入れます。権力がどんなに弾圧しても、人々の魂にある「何か」は消し去ることはできないのでした。




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