始めに
大江健三郎「飼育」解説あらすじを書いていきます。
語りの構造、背景知識
サルトルと実存主義
大江健三郎は、サルトルや実存主義からの影響が顕著で、そこから表現を組み立てて行きました。
サルトルに関しては、ざっくり話すとハイデガーの実存主義哲学、プラグマティズムや、セリーヌ作品(『夜の果てへの旅』)などからの影響を受け、一個のエージェントがその伝記的な背景などを背景に世界にコミットメントするプロセスに関して、構造的な把握を試みたものです。対自存在(自分自身を対象として意識する存在。志向する対象とする存在)としての人間は、世界の中にある他のエージェントからの相互的な役割期待があり、世界の中で自分自身をデザインしていく自由と責任があることをモデルとして提起しました。
またサルトルは実存主義において、未来に向かって現在の自己を抜けでて自覚的に自己を創造していくことをもとめ、さらにそれによって社会や世界に対して、そして人類の未来に対して責任を負うアンガージュマン、社会参画を唱えました。
サルトルからの大江健三郎への影響
サルトルからの大江健三郎における影響は、もっぱら1.古典主義者としての姿勢、2.行動主義者としての姿勢3.言語行為としてのフィクションへの着目に整理できます。
1に大江健三郎の文学は『水死』『取り替え子』に見えるように、既存のテクストの歴史であるアートワールドの体系へのコミットメントによって成立しています。自己物語と関連付ける中で、既存の芸術史の体系へと参画していく姿勢に実存主義の影響が見えます。
2に『見る前に跳べ』などからみえる現実参画を多とする行動主義者としての作家大江健三郎のあり方には、実存主義の影響が見えます。
3に創作が現実参画として社会になんらかの影響を与えるという、言語行為としての創作プロセスへの着目は、『水死』などにも見えますが、ここにもサルトルの実存主義の影響が見えます。
自由と責任
本作もサルトルの実存主義が掲げた自由と責任をテーマにします。
主人公の僕は、捕虜にした黒人兵を囚えていたところ、次第に相互に人間としてのまなざしが生まれていき、「飼育」の関係を抜け出せそうになったところ、黒人兵からの裏切りもあって、最終的には彼に対する背信によって、世界のなかでの不正義な共同体の実践に迎合し、自己の本質をデザインするプロセスにおいて歪みが生まれています。黒人兵を飼育することをやめられなかった僕は、最後には不正義な共同体に飼育される大人になってしまいます。
こうした主題は晩年の『さようなら、私の本よ!』などにも見えています。
フォークナーの影響。南部ゴシック
フォークナー(『アブサロム、アブサロム!』『響きと怒り』)は大江健三郎の好きな作品ですが、本作もフォークナーなどの南部ゴシックのパロディになっています。
南部ゴシックとは南部の封建的な因習や文化の残る土地の中での実践を描く作品です。国内では深沢七郎(『楢山節考』)や中上健次(三部作[1.2.3])が日本版南部ゴシックを展開しました。
本作で南部ゴシックにより長編デビューを果たした大江健三郎ですが、その後も四国愛媛の故郷を南部ゴシック的な世界として展開していくのでした。
ガスカールとメイラー
大江健三郎はガスカールという作家の戦争文学や、行動主義でモダニズムの作家ノーマン=メイラーの影響が初期には特に顕著です。
本作も、ガスカールやメイラー文学のような、生々しく身体的でグロテスクな世界を展開しています。また動物と人間の垣根が崩れる感覚は『けものたち』と共通です。
物語世界
あらすじ
長い梅雨の影響で村と町を最短で繋ぐ吊り橋が崩落し、谷間の村は孤立して僕が通う分教場も休校になっています。
そんななかアメリカの飛行機が撃墜され、森の谷間の村に黒人兵が落下傘で降りてきます。捕らえた黒人兵は、県の指令を待つ間、書記の指示で、語り手の少年の「僕」の家の地下倉で「飼育」することになります。
黒人兵と僕の関係は日毎に親密になります。しか県の指令で黒人兵の移送が決まると、黒人兵は僕を捕らえて盾にして抵抗しました。父や村人が迫り、父は鉈で僕の手ごと黒人兵の頭を切りつけて殺害します。
怪我で包帯を巻く僕の手を指して友達は臭い、とからかいます。しかしこれは僕の臭いでなく、黒人の臭いだと反発します。そう答えた僕は、自分はもう子供でないことを悟ります。
参考文献
小谷野敦『江藤淳と大江健三郎』(筑摩書房)




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