はじめに
大江健三郎『美しいアナベル=リイ』解説あらすじを書いていきます。
語りの構造、背景知識
創作プロセスを描く作品
大江健三郎には『水死』(2009)もありますが、本作はあれと同様に創作のプロセスそれ自体を創作の対象とする作品になってます。とはいえ、あちらのほうが完成度がたかいです。
大江がこのようなアプローチを取るとき意図するのは、フィクションを発表することによる現実への参画で、つまるところ小説の創作という言語行為のパフォーマティブな側面に着目するものです。
本作で描かれる創作も、それによる暴力との戦いという意味を帯びています。
クライスト『ミヒャエル=コールハースの運命』
作中で映画化が企図されるクライスト『ミヒャエル=コールハースの運命』は、領主の不正への憤りから暴徒の頭となった商人ミヒャエル=コールハースを描き、16世紀に実在したザクセンの体制反逆者ハンス=コールハースの行状を記した古記録を典拠とします。
おおまかなプロットです。領主フォン=トロンカからうけた理不尽な扱いがあってそれへの訴えが握りつぶされ、その際暴行を受けた妻の死から、怒りに燃えたコールハースが、7人の仲間を集めて武装したうえで城を襲撃、成功します。しだいに職を失った賎民たちを取り込んで400人の規模まで膨れ上がったコールハースの軍勢が、件の領主フォン=トロンカをあぶりだすために街を焼き討ちにし、国中を混乱させます。やがてマルティン=ルターがコールハースの行動を非難する布告を出し、もともとルターを尊敬していたコールハースは、ルターに面会を求め、経緯を伝えます。事情を知ったルターは選帝侯との間をとりなして、コールハースたちの武装解除を条件に不正事件の再審を認めさせます。事件は神聖ローマ帝国の高等法院で裁かれ、コールハースの訴えが認められ、フォン=トロンカには賠償と二年の禁固刑になります。一方でコールハースの罪もあって打ち首が決まるものの、満足したコールハースは判決を受け入れます。
全体的にこの物語を大江は、『万延元年のフットボール』『河馬に噛まれる』などでも描かれた、新左翼などに代表される反体制的ムーブメントの中での自己実現やその危険性に言及する形で引用しており、新左翼が正義を追求したのに不正義をなしてしまったように、コールハースも不正義への怒りから国民全体を巻き込むテロリズムを展開してしまいます。
また、この物語は性暴力とのサクラの戦いの象徴的物語としても引用されています。
加えて、『同時代ゲーム』でも描かれる、故郷谷間の村のメイスケの母の神話の象徴として解釈されています。
性暴力の告発
本作は創作を通じて性暴力を告発する『水死』『キルプの軍団』と共通の構造となっています。
タイトルになっているアナベル=リイであるところのサクラは戦災孤児で、占領軍の語学将校マガーシャックの養女として、戦後、松山に暮らしたことがあります。そこで語学将校はサクラをアナベル=リイに見立てて、8mmフィルムを撮っていました。語り手の「私」は、そのフィルムをアメリカ文化センターで見た記憶があり、フィルムの最後にチャイルド=ポルノのシーンがあったことを覚えていました。一方、サクラ自身は確かな記憶を持っていません。
やがて「私」が協力する木守が中心になる映画プロジェクトにおいて撮影スタッフが、子役の幼女を盗撮してチャイルド=ポルノにしていることが発覚し、事件化します。このため映画の企画は潰えるものの、俳優のサクラは映画を諦める気はありません。そこで木守が、松山で昔撮影された8mmフィルムのサクラが陵辱されたシーンが映っている「無削除版」をサクラに見せると、サクラは精神的に深いダメージを負い、アメリカに戻り精神病院に入院します。こうした手段を取った木守を、私は陋劣と責めて、「私」と木守の関係は途切れます。
しかし、サクラは再び立ち上がり、映画の計画が再スタートします。
ポー「アナベル=リー」とナボコフ『ロリータ』
本作はポー「アナベル=リー」、ナボコフ『ロリータ』を下敷きにします。
ポーの「アナベル=リー」は、若くして死んだ恋人のアナベル=リーについて歌うセンチメンタルな詩です。
『ロリータ』ではハンバートの永遠の淑女としての存在にアナベル=リーという名前の存在が現れます。夭折した彼女をハンバートは理想化し、その面影をロリータに見いだして執着します。『ロリータ』は、ポーの「アナベル=リー」を幼女への執着の物語に読み替えています。
語り手で大江の分身「私」はナボコフの『ロリータ』の新訳が文庫で出版されたときに、その解説を執筆しました。そしてそれを見たヒロインのサクラがプロデューサーの木守に再度、映画を立ち上げようと物語終盤で呼びかけます。それを受けて木守は「私」にコンタクトを取りにきたのでした。
物語世界
あらすじ
老作家の「私」を、旧友で国際的な映画プロデューサーである木守が訪ねます。木守は30年前に2人が取り組んで、頓挫した映画の企画を再度提案します。
「私」が1970年代なかば、金芝河の釈放を求めて集団でハンストをおこなっているところに、木守は女優サクラ=オギ=マガーシャックを連れて尋ねてきます。サクラを主人公にしてクライストの『ミヒャエル=コールハースの運命』の映画を撮る国際的なプロジェクトがあり、そのシナリオを「私」に依頼するためでした。
サクラは戦災孤児で、占領軍の語学将校マガーシャックの養女として、戦後、松山に暮らしたことがあります。そこで語学将校はサクラをアナベル=リイに見立てて、8mmフィルムを撮っていました。「私」は、そのフィルムをアメリカ文化センターで見た記憶があり、フィルムの最後にチャイルド=ポルノのシーンがあったことを覚えていました。一方、サクラ自身は確かな記憶を持っていません。
コールハースの映画の企画は進み、原作を翻案して、「私」の故郷である愛媛の山奥の村の一揆の指導者で、陵辱されたメイスケ母の物語に重ねることにします。サクラは乗り気になり、「私」の妹で村に住むアサとコンタクトを取ります。
やがて撮影スタッフが、子役の幼女を盗撮してチャイルド=ポルノにしていることが発覚し、事件化します。このため映画の企画は潰えるが、サクラは映画を諦める気はありません。木守は、松山で昔撮影された8mmフィルムのサクラが陵辱されたシーンが映っている「無削除版」をサクラに見せると、サクラは精神的に深いダメージを負い、アメリカに戻り精神病院に入院します。こうした手段を取った木守を、私は陋劣と責めて、「私」と木守の関係は途切れます。
「私」はナボコフの『ロリータ』の新訳が文庫で出版されたときに、その解説を執筆しました。そしてそれを見たサクラが木守に再度、映画を立ち上げようと呼びかけます。それを受けて木守は「私」にコンタクトを取りにきたのでした。
サクラは撮影のために愛媛へ行き、木守は前立腺癌の再発の検査で東京の病院に入院します。木守を見舞った「私」がその帰り道の電車の中で、サクラがメイスケ母の嘆きと怒りの「口説き」を演じているシーンを想像するところで物語は終わります。
参考文献
小谷野敦『江藤淳と大江健三郎』(筑摩書房)



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