はじめに
ベケット『ゴドーを待ちながら』解説あらすじを書いていきます。
語りの構造、背景知識
モダニズム。ジョイスの弟子。神話的象徴
サミュエル=ベケットはジョイス(『ユリシーズ』『ダブリン市民』)の弟子で、その神話的象徴の手法や、エピファニーの発想から影響を受けました。
モダニズム文学はT=S=エリオットの『荒地』などを皮切りに、フォークナー(『アブサロム、アブサロム!』『響きと怒り』)、ジョイス(『ユリシーズ』)、三島由紀夫(『奔馬』)、大江健三郎(『万延元年のフットボール』『取り替え子』)など、神話的象徴の手法を取り入れるようになりました。これは神話の象徴として特定の対象が描写され、新しい形で神話や特定の対象が発見される機知が喚起する想像力に着目するアプローチです。
『ユリシーズ』では冴えない中年の広告取りレオポルド=ブルームを中心に、ダブリンの1904年6月16日を様々な文体で描きます。タイトルの『ユリシーズ』はオデュッセウスに由来し、物語全体はホメロスの『オデュッセイア』と対応関係を持っています。テレマコスの象徴となるスティーブン=ディーダラス、オデュッセウスの象徴としてのレオポルド=ブルームのほか、さまざまな象徴が展開されます。
ベケットの作品も、そのような象徴的、寓意的内容を孕むものが多く、本作も同様です。また、それに加えて、本作はジョイスのエピファニーからの影響を受けています。
ジョイスのエピファニー
ジョイスは美学においてエピファニーという発想を提唱しました。これは、「平凡な瞬間の中に、対象がふとした瞬間に見せるその本質の顕れ」のことです。ジョイスはイプセン(『民衆の敵』『人形の家』)という戯曲作家のリアリズムからの影響が顕著で、エピファニーの発想にも、それが手伝っています。
具体例からそれを見ていきます。『ダブリン市民』の「死者たち」では、1904年、雪のクリスマスのダブリンが舞台です。大学教授のガブリエル=コンロイと妻のグレタはジュリアとケイトのモーカン叔母姉妹と姪メアリーが毎年主催する舞踏会にやってきます。帰り際にバラード「オクリムの乙女」を聴いた時から、グレタの様子が変わります。ホテルに戻ったガブリエルは、グレタからゴールウェイの祖母の田舎に住んでいた娘時代に出会った、この歌をよく口ずさんでいた少年マイケル=フューリーの思い出話を聞かされます。結核になり、会うことが許されず、グレタがダブリンに発つ日に病床を抜け出し、冷たい雨の中、庭先に立っていたものの、まもなく亡くなったそうです。ガブリエルは嫉妬から憐れみ、そして愛に感情が変化していき、今夜の光景を思い出します。そして死者たちの世界を想います。
このように、この作品のなかでは格別大きな事件があるわけではありません。ふとしたことがきっかけで、過去のトラウマがグレタにフラッシュバックし、そこから発展した会話から、夫妻は死と死者たちの世界について意識します。マイケルの死は、夫妻に何か死というものの本質を顕しているのでした。
本作も、同様にエピファニー的な発想のもと、デザインされています。
「待つ」というモチーフ
本作は寓意的でありつつ、それが何の具体的な象徴なのかは明らかになっていませんし、特定する意図があったのでもありません。それでも、本作は「待つ」という行為について、その本質を顕しています。
本作はウラディミールとエストラゴンという2人の浮浪者が、ゴドーという人物を待っていて、ずっとそれが来ないまま、というそれだけの内容です。それでもそこに描かれる二人やポッツォと従者のラッキーなどが繰り広げる会話や戯れは、閉塞感を湛えていて、ヘミングウェイ「殺し屋」『日はまた昇る』などを思わせます。
「殺し屋」は、殺し屋に追われる男アンダーソンの物語を描いていますが、彼が置かれた状況は、なんとも言えないものです。さながら最後の審判を待つかのように、やがてはやってくるであろう終わりに抗うことも逃げることもなく、無為な日々を過ごすアンダーソンが印象的です。ここで殺し屋という存在は、やがて避けられない死の運命の象徴のような存在になっています。これから何度もときを重ねても、あるいは繰り返しても、その宿命に従うことは避けられないという逼塞感が、退廃した日常の輪廻を演出します
本作ではゴドーが来ることは作中ではずっとなく、二人は来るかもわからないゴドーを待ちながら不毛な会話を重ねて、ただずっと何かを待っています。
物語世界
あらすじ
第1幕
ウラディミールとエストラゴンという2人の浮浪者が、ゴドーという人物を待っています。2人はゴドーに会ったことはなく、たわいもないゲームや会話をします。そこにポッツォと従者のラッキーがきます。ラッキーは首にロープを付けられ、市場に売りに行く途中だとポッツォは言います。ラッキーはポッツォの命ずるまま踊ったりするが、考えろと命令されて突然、哲学的な演説を始めます。ポッツォとラッキーが去った後、使者の少年がやってきて、今日は来ないが明日は来る、というゴドーの伝言を告げます。
第2幕
ウラディミールとエストラゴンがゴドーを待っています。またポッツォとラッキーが来るものの、ポッツォは盲目になっており、ラッキーは何もしゃべりません。2人が去った後に使者の少年がやってきます。今日もゴドーは来ないそうです。少年の使者は昨日の使者とは別人と言いますが、本当にそうなのか、また双子か何かなのかよくわかりません。二人の浮浪者とも初対面だというので、ウラディミールは怒ります。
ウラディミールとエストラゴンは自殺を試みるが失敗します。
参考文献
・Deirdre Bair (著), 五十嵐 賢一 (翻訳)『サミュエル・ベケット: ある伝記 』




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