始めに
サリンジャー『フラニーとゾーイ』解説あらすじを書いていきます。
背景知識、語りの構造
朦朧とした語りの背景に滲む家庭の不穏
サリンジャーはフォークナー「あの夕陽」という作品から多大な影響を受けました。これはヨクナパトーファサーガを構成する作品で、コンプソン家のクウェンティンが幼少期を回想し、黒人の女中ナンシーとその夫ジージアスたちとの過去が物語られます。どうやらジージアスはナンシーを殺そうとしているようなのですが、如何せん語り手のクウェンティンの得た情報は断片的で、また現在に至る経過を知っているはずのクウェンティンは、読者に物語世界の事実認識のための十分な情報を語らないため、今ひとつ要領を得ません。このため家庭、家族の不穏が朦朧とした語りによって読者に伝えられます。
本作では、『ナイン=ストーリーズ』にも見えた兄シーモア=グラースの自殺のトラウマや、宗教的哲学的な内的な世界と、世俗のブルジョワ世界の実践との間に板挟みになるフラニーの苦悩が、描写の積み重ねで断片的に描かれていきます。
フォークナーとサーガ
フォークナー(『アブサロム、アブサロム!』『響きと怒り』)はまた、ヨクナパトーファサーガという、架空の郡の歴史を描く手法を展開し、その中でバルザック(『従妹ベット』『ゴリオ爺さん』)も用いた、人物再登場法(同じ人物を別の作品に再登場させる)などの手法を取り入れていました。
本作もそんなフォークナーのサーガと重なる、グラース=サーガの一作で、グラース家のフラニーのことを中心的に描いています。
『ナイン=ストーリーズ』にもある自殺したシーモアを慕うフラニーが印象的です。
ユーモアのセンス。ラードナー、ドストエフスキー、サローヤン、チェーホフ、カフカ、フローベール、オースティンの影響
サリンジャーの語りはユーモアを特徴とします。私淑したラードナー、チェホフ(『桜の園』)、サローヤンのユーモアやペーソス、ドストエフスキー(『罪と罰』)、カフカ(『変身』)、フローベール(『ボヴァリー夫人』『感情教育』)といった喜劇作家の反ブルジョワ的なコメディの影響が滲んでいます。
本作では、主人公のフラニーは、神秘主義や宗教的世界に籠もり、ブルジョワ社会に嫌気が差しています。ボーイフレンドのレーンのスノビズムやブルジョワ仕草にも辟易しています。
サリンジャーの神秘主義、古典主義
本作には明らかですが、『ナイン=ストーリーズ』から顕著にあった、東洋神秘主義への傾倒をサリンジャーは深めていきます。
モダニズム文学でもT.S.エリオットのカトリックへの改宗が知られますが、エリオットはそのような伝統としての国教会へのコミットメントの中に、古典主義者としての自己実現の契機を見出したのでした。
サリンジャーも戦争の心的外傷に苦しみ、やがてそのような神秘主義的な伝統へのコミットメントに自己実現の余地を見出しました。
悟りとエピファニー
『ユリシーズ』で知られるモダニズムの作家のジェイムズ=ジョイスは、平凡な一瞬のうちに現れる対象の本質の顕れをエピファニーとして形容し、その象徴的、寓意的発想が『ユリシーズ』『ダブリン市民』にも現れます。
サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』でも、ラストにおいて不意にホールデン少年は回転木馬に乗った妹フィービーの姿のうちに、エピファニーの如き悟りを得ます。このような悟りの展開は『ナイン=ストーリーズ』の「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」のラストにも見えます。
本作では祈りや東洋思想、宗教哲学に救いを見出すフラニーが描かれます。ラストで兄ゾーイの慈愛に触れて、何事かを悟って満たされるフラニーが印象的です。
物語世界
あらすじ
「フラニー」
晩秋の駅のプラットホーム。女子大生でガールフレンドのフラニーの到着を待つ大学生のレーン。
ふたりは大学対校のフットボールの試合を観戦したあと、週末の計画を立てます。ふたりはレストランで昼食を取るものの、スノッブなエリートのレーンに対し、自意識に悩むフラニーとの会話はすれ違います。
やがて、フラニーはテーブルを離れ、店のトイレに駆け込み泣いた後、バッグから本を取り出し、落ち着きます。
彼女がテーブルに戻ると、レーンは彼女の本について尋ねます。それは『巡礼の道』といい、ロシアの放浪者が絶えず祈る能力を習得する話だそうです。イエスへの祈りを、無意識のうちに内在化するようになることが描かれます。
レーンはそれよりパーティとフットボールの試合の予定を気にしているものの、フラニーが失神した時、彼女を介抱し、週末の計画を延期します。
彼女が意識を取り戻した後、彼は彼女のためタクシーを呼びに行きます。一人で彼女は絶えず祈る練習をします。
「ゾーイー」
週末を一緒に過ごすこともなくニューヨークの自宅に戻ったフラニーは、そのまま居間の寝椅子に寝込みます。
シーモアとバディという二人の兄から植え付けられた宗教哲学や東洋思想と、現実世界の板挟みに遭うフラニーは「巡礼の道」に出てくる宗教的な祈りに救いを求めようとします。
心配した母親のベシーは、兄であるゾーイーに助けを求めます。ゾーイーの饒舌さは脱線を繰り返し、ますますフラニーを混乱させます。死んだ兄のシーモアに会いたいと言いうフラニーに対し、ゾーイーは部屋を出ると、二人の兄が使っていた書斎に入り、ドアの背面の哲学的な引用を読みます。
ゾーイはバディを装ってフラニーに電話します。フラニーに見抜かれるものの、ゾーイはシーモアの教えを共有し、前向きに愛と生きるべきだといい、イエスにはすべて分かると伝えます。
電話を切った後、フラニーは両親のベッドに横たわり、微笑むのでした。
参考文献
・ケネス=スラウェンスキー著 『サリンジャー 生涯91年の真実』(晶文社.)




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