はじめに
川端康成『山の音』解説あらすじを書いていきます。
語りの構造、背景知識
モダニズム(ジョイス,横光利一,谷崎)、異質物語世界の語り手
川端康成は『文藝時代』を拠点とする新感覚派を代表するモダニズム文学の作家として知られています。モダニズムの作家ジョイス(『ユリシーズ』)、横光利一(『機械』)は意識の流れの手法を展開し、一人称的視点のリアリズムを展開しましたが、本作も一人称的視点の不確かさ、リアリズムを描く内容と言えます。このようなスタイルを川端は「水晶幻想」や「雪国」で確立します。
また谷崎の影響も顕著で、『雪国』『山の音』『眠れる美女』『みづうみ』といった代表作は、『卍』『吉野葛』『盲目物語』『過酸化マンガン水の夢』『痴人の愛』といった谷崎のモダニズム、心理劇、古典趣味とかなり重なります。谷崎の語りの巧みな心理劇は、川端へ継承されています。
語りの構造
本作における語り手は異質物語世界によるもので、尾形信吾に焦点化が図られます。語り手は物語世界外の存在ではあるものの、およそ信吾の見聞きしたことしか語りません。そのため、読者と信吾はおよそ事実認識のための情報量を共有しています。
この辺り『雪国』と重なりますが、向こうの島村は本人の個性が希薄でもっぱらそこで展開される心理劇においてはサブ的なプレイヤーであるのに対して、本作は家族関係を中心とする網の目の中に信吾も深くコミットしている上、信吾の過去や心理も深く掘り下げられていきます。この辺り、ジョイス『ユリシーズ』やプルースト『失われた時を求めて』と重なります。
一人称視点のリアリズム心理劇
本作品とコンセプトとして重なるのは漱石『こころ』やロブグリエ『嫉妬』、谷崎潤一郎『卍』『痴人の愛』、芥川『藪の中』、フォークナー『響きと怒り』、リンチ監督『ブルー=ベルベット』、ハメット『マルタの鷹』と言えます。集合行為における一部のアクターを語りの主体にするとか、または一部のアクターにしか焦点化をしない、あるいは内的独白や心理描写が焦点化人物においてもオミットされているため、読者も登場人物と同様、作中の事実に不確かな認識しか得られるところがなく、限定的なリソースの中で解釈をはかっていくことしかできません。
本作で特に分かりにくいのは修一と菊子の心理で、この二人の内面については読者にとっても解釈していくしかありません。
家族という関係の網の中での心理劇
川端康成の作品では、『伊豆の踊子』『雪国』『みづうみ』『眠れる美女』でもそうですが、自分が帰属する共同体やコミュニティから離れたところにいる主人公の視点から展開される心理劇が多いのですが、本作は家族の中での心理が展開されています。
心理劇の中心にいる信吾、修一、菊子はそれぞれ異なる信念、選好を持ち、家族のなかで戦略的コミュニケーションを展開していきます。それが交錯する中で物語が展開されていきます。この辺りは川端も好んだドストエフスキーの作品(『罪と罰』)を連想します。
老いをめぐる心理劇
本作品は『眠れる美女』同様、老いをめぐる心理劇になっていまして、この辺りはフロイトのタナトス概念の影響を感じます。
よく谷崎『瘋癲老人日記』『鍵』と並べて言及されますが、こっちの方が優れています。
物語世界
あらすじ
東京にある会社に通う初老の重役・尾形信吾は、妻の保子、長男夫婦(修一、菊子)の4人で鎌倉に住み、修一も同じ会社で補佐的な役を務めています。夏のある深夜、地鳴りのような「山の音」を耳にし、死を意識します。
修一の嫁の菊子を見ると、信吾は妻の保子の姉を思い出します。保子の姉は美人で、少年時代の信吾の憧れで、若くして亡くなりました。修一と菊子は結婚してまだ2年ほどですが、修一は不倫をしています。だが修一と菊子の夫婦生活は進み、深夜、前にはなかった菊子の声を信吾は聞きます。信吾は修一の浮気の秘密を知る会社の秘書の谷崎英子から、女の居場所を聞きます。
嫁に行った長女の房子は、夫の相原と不仲で、2人の幼子(里子、国子)を連れて実家へ帰ってきました。そんななか、嫁の菊子だけが信吾にとっての救いであり「窓」でした。信吾は時々、死んだ友人の登場する夢や、若い娘の妖しい夢を見ることが増えます。信吾は、亡友の遺品の能面を預かり、その中性的な慈童面の唇に接吻しそうになります。
菊子への恋情を意識する信吾は、修一と菊子が夫婦だけで暮した方がいいのではないかと考え、菊子に別居を勧めます。しかし菊子は、1人で修一の帰りを待つのは怖くて淋しいと菊子は言います。
修一の浮気相手の絹子は、戦争未亡人です。信吾は、修一が菊子のことを谷崎英子に、子供だと言っていることを知り、怒ります。菊子を雑に扱い、他人にも平気で下品な話をする修一が信吾には耐え難いのでした。戦地から帰った修一は、どこかで深いトラウマを受けています。
ある日、菊子は信吾が眺めている慈童面を顔にあてます。信吾に言われ、少年の能面を動かす菊子が信吾には哀れでした。菊子の能面に隠れた顔から涙が伝って流れます。信吾は、菊子が離婚を考え、自分も友人のようにお茶の師匠になろうとしているのを察し、菊子に呼びかけます。菊子は頷き、もし修一と別れても、お父様の所にいて、お茶をしたいといいます。
菊子は修一の浮気を知っていて、修一の子を堕胎しています。信吾は修一を咎めるも、中絶費用の出所も絹子の金だと知り唖然とします。
信吾は、絹子が修一の子を妊娠したことを谷崎英子から聞き、絹子の家を訪ねます。家には同居人で戦争未亡人の池田がいます。絹子は、妊娠中の子は修一の子ではないと言いまふ。別れ話も済ませたと説明する絹子に、信吾は手切れ金の小切手を渡して立ち去ります。秋口、菊子が再び妊娠した様子だと、房子から聞くと、信吾は今度は大事にして産んでほしいと菊子に声をかけます。しかし菊子は妊娠を否定するのでした。
ある朝、信吾は妻にネクタイを結ばせている時ふと、大学を卒業し初めて背広を着た日に、保子の姉がネクタイを結んでくれたことを思い出します。修一は、信吾と電車で帰るさい、菊子は自分の妻であるが「自由」だと、お父さんから伝えてくださいと言います。
房子の夫の相原は女と心中事件を起こした後も行方不明で、房子は離婚届を出しています。もし房子が再婚し、幼子2人を実家に残すと、菊子に負担と考え、信吾は菊子に別居を勧めます。菊子は修一と2人だけの生活が怖く、信吾と離れたくないようです。信吾は、修一の言葉を踏まえ、菊子はもっと信吾と修一か、自由になれ、と菊子に告げます。その瞬間、鳩が飛び立ち、信吾にはそれが「天」からの音に聞こえます。菊子は鳩を見送りながら涙ぐみます。
ある日曜の夕飯時、一家全員が揃っています。長女の房子が、小さい店を持ちたいと言うと、菊子もそれを手伝いたいと言います。信吾は次の日曜に家族で田舎の信州に出かけ、もみじを見に行こうと提案します。食事のあと、座敷からからす瓜が実っているのを見た信吾は、それを菊子に伝えるも、聞こえないようです。
参考文献
小谷野敦『川端康成伝-双面の人』(2013.中央公論新社)
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