始めに
アンナ・カヴァン『氷』解説あらすじを書いていきます。
背景知識、語りの構造
カヴァンの作家性
カヴァンにとって最も決定的かつ象徴的な影響を与えたのがカフカです。悪夢のような官僚機構、出口のない閉塞感、そして理由なき罪悪感といったカフカ的なテーマは、彼女の代表作『氷』や中短編に強く反映されています。
カヴァンの文体、特に内面意識の描写においては、ヴァージニア=ウルフの影響が見て取れます。初期から中期にかけて、個人の内面的な時間や感覚を細やかにすくい取るモダニズムの手法を、カヴァンは独自に発展させました。客観的な事実よりも、個人の感じている世界を優先する姿勢は、後の幻視的な作風の土台となりました。
カヴァンの初期作品には、イギリス文学の伝統的なゴシック的感性が流れています。エミリー・ブロンテ『嵐が丘』に見られるような、荒野、孤立、激しい感情の噴出、そして宿命的な孤独感は、カヴァンが生涯を通じて描き続けたテーマと共鳴しています。
初期から中期にかけての作品において、人間の原初的な衝動や自然との関わり、あるいは支配と被支配のダイナミズムを描く際にD.H.ロレンスの影響が指摘されます。
カヴァンは特定の作家からのみならず、当時のシュルレアリスム運動や、自身の精神医学的な経験からも多大な影響を受けています。ジュナ=バーンズのの実験的で濃密な散文は、カヴァンが評価していた同時代の前衛文学の一つです。また自身の精神疾患の治療記録や、精神科医との対話が、彼女の内省的な狂気を言語化する助けとなりました。
タイトルの意味
この作品の最大の特徴は、世界を覆い尽くそうとする巨大な氷が、登場人物の心理状態や孤独と完全に同期している点です。迫りくる氷壁は、逃れられない死や、人間同士の対話が不可能なほどの断絶を象徴しています。すべてを白く塗りつぶす氷は、感情の喪失や、精神的な無の状態を視覚化したものとも言えます。
物語は、語り手(「私」)が、銀色の髪の少女を追い求める追跡劇として進みます。語り手と監視者(ウォーデン)は、少女を自分の所有物として支配しようとします。少女には主体性がほとんど与えられず、常に犠牲者として描かれます。少女を救いたいと言いつつ、彼女を追い詰める語り手の矛盾した行動は、愛情という名の暴力や支配欲を浮き彫りにしています。
薬物の象徴
カヴァンが生涯を通じてヘロインに依存していたことは有名です。『氷』という言葉そのものが、彼女の白い粉への依存を暗示しているという解釈が一般的です。
物語が非直線的で、同じような光景が何度も繰り返される悪夢のような構造は、薬物による意識の変容や、依存症のループを彷彿とさせます。氷はすべてを破壊しますが、同時にすべてを凍結させて保存させます。この静止への渇望は、苦痛から逃れるための麻酔的感覚と繋がっています。物語の中で世界は確実に滅びに向かっていますが、登場人物たちはそれを食い止めようとはしません。政治的・社会的な混乱よりも、個人的な強迫観念に没頭する語り手の姿は、崩壊しつつある現代社会に対する痛烈な皮肉とも取れます。
物語世界
あらすじ
舞台は、核戦争の影響か、あるいは原因不明の天変地異か、巨大な氷の壁が北極から南下し、世界を飲み込もうとしている終末期です。各国では戦争や略奪が横行し、社会秩序は崩壊寸前にあります。
語り手である私は、かつて愛した銀色の髪の少女を探して、氷に覆われつつある異国の地をさまよいます。少女はあまりにも脆く、繊細で、常に誰かの犠牲者となる運命を背負っているかのように描かれます。彼女は現在、傲慢で冷酷な独裁者的存在である監視者(ウォーデン)の妻となっており、彼からも虐待に近い扱いを受けています。
物語は、現実の出来事なのか、語り手の妄想や夢なのかが判然としないまま進みます。私は少女を救い出したいと願いながらも、次の瞬間には彼女を組み伏せ、破壊したいという加害衝動に駆られます。
戦火、凍てつく海、氷壁の威圧感。場面は脈絡なく転換し、デジャヴのような追跡劇が何度も繰り返されます。
ついに私は少女を連れ出し、車で逃走します。しかし、周囲はすでに厚い氷に閉ざされ、どこへ行っても逃げ場はありません。
二人が乗る車を氷が包み込み、世界が白く塗りつぶされていく中で、物語は静かに幕を閉じます。そこにあるのは、救済とも絶望ともつかない、絶対的な静止です。




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