始めに
ジャンポール=サルトル『嘔吐』解説あらすじを書いていきます。
背景知識、語りの構造
サルトルの作家性
サルトルが実存主義を確立する上で、ドイツ哲学との出会いは欠かせませんでした。サルトルがベルリン留学中に学んだのがフッサールの現象学です。意識は常に何かについての意識であるという志向性の概念に衝撃を受けます。サルトルの主著『存在と無』は、ハイデッガーの『存在と時間』への応答でもあります。人間は投げ出された存在であるという世界内存在の考え方を、サルトルは独自の自由の哲学へと昇華させました。またニーチェの刺激もあります。
サルトルは『カラマーゾフの兄弟』の有名な一節、「もし神がいなければ、すべては許される」を実存主義の出発点として引用しています。人間の孤独と選択の重みを描くドストエフスキーの姿勢は、彼に深く根付いています。
サルトルは晩年、フローベールの膨大な評伝『家族の白痴』を執筆しました。愛憎入り混じる対象ではありましたが、フローベールの書くことへの執念はサルトルにとって生涯のテーマでした。ドス=パソスとウィリアム=フォークナーからも影響されました。
ボーヴォワールは生涯のパートナーであり、互いの原稿を誰よりも先に読み合った彼女は、単なる影響を超えた共同思索者でした。また戦後のサルトルはマルクス主義に接近し、実存主義とマルクス主義をどう統合するかに苦心しました。
実存的苦悩
ロカンタンはある日、公園のマロニエの根を見て衝撃を受けます。それは、世界にあるすべてのものがただそこにあるだけであり、存在する理由も根拠も、必然性もないという事実です。すべての存在は、あってもなくてもいい余計なものであるという感覚。なぜ私はここにいるのかという問いに、神も科学も、納得のいく必然的な理由を与えてくれないという発見です。
後のサルトルの有名なスローガン実存は本質に先立つの種がここにあります。ペーパーナイフは紙を切るという目的(本質)があって作られます。しかし、人間にはあらかじめ決められた目的がありません。自分が何者でもないという自由すぎる状態のスカスカした感覚が、ロカンタンにとっては生理的な嘔吐として現れるのです。
ロカンタンは、自分の存在の無意味さから目を背け、肩書きや歴史、道徳の中に逃げ込んで自分は必要な人間だと思い込んでいる人々を「サラオー(ろくでなし、卑怯者)」と呼び、激しく嫌悪します。社会的地位があるから自分には価値がある、と信じることは、存在の偶然性から逃げる自己欺瞞にすぎないとサルトルは喝破しました。
物語の終盤、ロカンタンはジャズのレコード『Some of These Days』を聴き、微かな希望を見出します。音楽のメロディや数学の世界は、音符一つ一つに意味があり、必然的です。ぐにゃぐにゃした不透明な現実に対し、芸術作品を作ることで、自分の存在に少しでも必然性や形を与えられるのではないか。これが結末で示される唯一の出口です。
物語世界
あらすじ
この小説は、主人公アントワーヌ=ロカンタンが綴る日記の形式をとっています。舞台はフランスの架空の海辺の町、ブーヴィルです。30歳の独身男性ロカンタンは、18世紀の貴族ロルボン侯爵の伝記を書くために、歴史資料館に通う日々を送っています。ある日、彼は奇妙な感覚に襲われます。
海岸で拾おうとした小石、カフェのビールのグラス、何気ない日常の事物が、突然ねっとりとした、不気味な存在感を持って彼に迫ってくるのです。彼はこの生理的な不快感を嘔吐と名付け、その正体を見極めようと日記を書き始めます。
ロカンタンは社会から孤立しており、周囲の人々を冷めた目で見つめています。独学の人は図書館のすべての本をアルファベット順に読破しようとしている男で、彼は人間愛を信じていますが、ロカンタンはその滑稽さに冷笑を浴びせます。日曜日に着飾って歩く市民たちは自分たちの存在が当たり前だと信じており、ロカンタンは卑怯者(サラオー)として軽蔑します。
唯一の心の拠り所だった元恋人アンニーから手紙が届き、ロカンタンはパリで彼女に再会します。かつて完璧な瞬間を求めて生きていた彼女もまた、今では情熱を失い、自分の存在が余計なものであることを悟っていました。唯一の救いだった彼女との対話も決裂し、ロカンタンは絶望的な孤独の中に投げ出されます。
ある日、公園のベンチに座っていたロカンタンは、マロニエの木の根を見て、ついに吐き気の正体を突き止めます。
根は、名前や色、形といった概念を脱ぎ捨て、ただ不気味に、そこに、あるという圧倒的な事実を突きつけてきました。世界には本来、意味も理由もない。自分も、木も、石も、すべてはただ偶然そこに存在しているだけの余計なものなのだと確信します。
絶望したロカンタンは、伝記執筆を捨ててブーヴィルを去る決意をします。出発前のカフェで、彼は何度も聴いたジャズのレコード『Some of These Days』を耳にします。メロディには無駄がなく、次の音が鳴るべくして鳴ります。この音楽のように、自分も何か(小説)を書くことで、このドロドロした偶然の存在に『必然性』という形を与えられるかもしれない。ロカンタンが、自分の存在を正当化するための物語を書き始める決意をするところで、日記は終わります。




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