始めに
最近、村上龍の新作短編集『ユーチューバー』が発表されました。というわけで龍の代表作『69 sixty nine』について語っていきます。
語りの構造、背景知識
等質物語世界の語り手=ケン。中上健次、セリーヌ、ニューシネマ流のリアリズム
この作品は龍の自伝的性質が強く、分身のような等質物語世界の語り手・ケンが主人公です。龍は中上健次(『千年の愉楽』)、セリーヌ(『夜の果てへの旅』)といった、フランスのモダニズム、シュルレアリスムからの影響が顕著で、身体性を伴った、卑猥でリアリスティックな語り口がここでも発揮されています。また『村上龍映画小説集』でオマージュを捧げたニューシネマの映画作品、監督からの影響も強く、例えばロバート=アルトマン『M☆A☆S☆H』やスコセッシ監督『ウルフ=オブ=ウォールストリート』のような、猥褻な口語的世界のリアリズムがここでも展開されています。
圧倒的な筆力を持った作家
村上龍という作家は、「良くも悪くも」天才肌です。似たようなジャンルでデビューした石原慎太郎(『太陽の季節』)もいますが、石原慎太郎(『太陽の季節』)と比べても龍の圧倒的な筆力は際立っています。もっというならドキュメンタリーフィルムのように生々しく現実を抉り取るリアリスティックな語り口の筆力は、同世代の村上春樹以上で、それこそハーマン=メルヴィル(『白鯨』)、マーク=トウェイン(『ハックルベリー・フィンの冒険』『王子と乞食』)や吉田健一(『酒宴』)のような圧倒的な文豪にも見劣りしないとも思えるほどです。
けれども龍は「よくも悪くも天才」なのです。つまり、文章に関しては圧倒的でも大江健三郎(『取り替え子』)、村上春樹(『風の歌を聴け』)といった、アートワールドの中の古典との対話、自己物語との擦り合わせのなかで理詰めに表現を組み立て筆業を残した作家と比べると、才能だけで書いている印象がします。龍という作家は『愛と幻想のファシズム』あたりで既に完成し、それ以降書き手としての成長のようなものは見えません。何を書いても才能があるので、例えば『五分後の世界』『愛と幻想のファシズム』のような陳腐なSF設定の作品もそれっぽく仕上がるし、『昭和歌謡大全集』のような一発芸みたいな内容でも読ませるものにはなります。『テニスボーイの憂鬱』『イン ザ=ミソスープ』をサラッとかけるのもすごいです。
けれどもやはり、才能だけで書いている人の限界、停滞のようなものは感じます。漫画家でいうと久保帯人(『BLEACH』)とか、松本大洋(『鉄コン筋クリート』)にそうした印象を感じます。努力してないという意味ではなく、読み上手ではないからそれゆえ古典主義者としてはいまいちという感じです。早くからスタイルを完成させつつ、以後は濫読からスキルアップしない印象です。
教養小説、ピカレスクロマン、私小説、ドキュメンタリー風の作品こそ粒揃い
とはいえやはり村上龍は天才です。特にその筆力は教養小説、ピカレスクロマン、私小説、身辺雑記風の作品において本領を発揮します。例えば『長崎オランダ村』『走れタカハシ』、また本作『69 sixty nine』のような作品です。それこそマーク=トウェインばりの筆力で、龍くらいにしか書けない内容だと思わせられます。
フィクション世界
あらすじ
1969年。佐世保に住む高校三年生の矢崎剣介(ケン)は、同級生の松井和子の気を惹くため、友人のアダマこと山田正らと共に校内の全共闘を言いくるめて、高校をバリケード封鎖しようと提案します。バリ封は成功しますがケンたちは停学処分に。しかしその結果、松井和子と接近します。
停学が明けたケンたちは、今度はフェスティバルの開催に向けて準備をすすめます。途中、長山ミエを誘ったため、工業高校の番長に睨まれるも、友人の助けもあり、フェスティバルは大成功になります。
参考文献
・高山文彦『中上健次の生涯 エレクトラ』




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