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「私小説」と「純文学」をめぐる俗説について

テーマ批評
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「私小説は日本に固有の文学ジャンルである。そしてそれによって日本文学は私的な世界へこもり、自然主義は矮小化した。また日本の『私』は社会的視座がない」?

ジャンルに厳密な定義はない

 そもそも文学史上のジャンル、ひいては日常言語一般の話として、(数学など形式科学の記号と違って)それに厳密な定義を与えるということは困難か不可能です。もっぱらその記号に示される対象が共通にもつ性質による内包的定義と、具体例による外延的定義、また意図などの外在的性質によって、道具的に満足の得られる記号の説明を考えられるだけです。

 つまり「私小説」は日本に固有のジャンルではあります。なぜならば「私小説」というジャンルの説明を構成する外延的定義、その他外在的性質(ジャンルへの参画の意図など)は、日本文学史に固有の歴史的因果関係を有するからです。一方で「私小説」の内包的定義(「作家自身の伝記的背景が反映され、自己物語の再現としての傾向を有する作品」)なら、どうでしょう。これは海外文学にもそのような作品は無数にあると思われます。『神曲』『ジェーン=エア』『肉体の悪魔』『失われた時を求めて』『アブサロム、アブサロム!』…まあキリがありません。「私小説」というジャンルはその歴史的因果関係による定義においては日本固有のジャンルでしょうが、似たような傾向を持つ小説作品は国外に多くの例があります。

エミール=ゾラの自然主義

 そもそも日本の文学史において主な範とされたエミール=ゾラ(『居酒屋』『ナナ』)の自然主義とは、もともと『実験小説論』に示される方法論レベルではかなりプリミティブで、またゾラという作家個人の作家的軌跡を辿っても一時期のもので、科学への信頼から自然主義から空想的社会主義を主題とする内容へと晩年変化していきます。日本の自然主義特殊論を唱える前に、まず代表格のゾラにしても自然主義の方法論は曖昧で、キャリアの中での作家性がまちまちで、ユイスマンスなどその弟子筋も同様です。

 またゾラが当初掲げた自然主義にしても、ダーウィン『進化論』やベルナール『実験医学序説』など、行動を決定する要因についての医学、遺伝学、社会学的知見を背景に、人間の社会的実践の美学的再現を、家族や遺伝的要因に焦点を当てて試みようとするもので、日本においても自然主義の代表格とされる長谷川天渓や岩野泡鳴、また田山花袋や島崎藤村にある程度は継承されているように思われます。

 また日本の自然主義が「私小説」など日本に固有の歴史的因果を辿ったとしても、それを矮小化と捉えるのは事実的記述というよりは、一評価に過ぎないでしょう。

田山花袋『蒲団』の社会性

 「日本の『私』は社会化されていない」というのは小林秀雄の言ですが、そもそも抽象的な言い方でなかなか意味を汲み取りにくいものです。それでもともかく花袋『蒲団』について見ていきます。まず妻子ある作家・竹中時雄のもとに横山芳子という女学生が弟子入りし、その恋人・田中秀雄もやってきます。時雄が芳子に恋したことで、三角関係が形成されます。

 この作品においては、妻子ある男の女学生への恋愛感情を批判的に描いています。社会における規範としての法、モラルに照らして許されざる自分の恋をグロテスクに、風刺的意図を持って描いています。ここには個人の欲求と社会的規範の衝突が描かれているという意味合いにおいて、社会に対する視座を持っていると評価できるのではないのでしょうか。

「純文学と通俗小説、大衆小説の区別は曖昧。また、前近代にはそのような区別はなかった」

「純文学」「通俗小説」は共にジャンル。そしてどちらも芸術。

 「純文学」「通俗小説」「大衆小説」という区分は歴史的に構築されたジャンルであり、いずれも「芸術」です。「芸術」とはもっぱらアートワールドの歴史性へのコミットメント、その批評性によって定義されるものであって、内包的定義によって素朴に規定できるものではありません。

 「純文学」というジャンルは1920年代ごろから固まりつつあったものですが、その生成には伝統的な近世文芸の雅俗の区分や海外の文学を巡る言説が関わっています。そして芥川賞などの制度によって、国文学に純文学というジャンルが定着していきます。

 また「通俗小説」はもっぱら家庭小説と呼ばれる、ダイムノベルの翻案などによって構成されるジャンルや江戸文芸(人情本)を前史とするものです。「大衆小説」は伝奇、読本、撥髷小説、探偵小説などの前史から構成されるジャンルです。

 「純文学」「通俗小説」「大衆小説」は、内包(内在的性質)の次元では共通性を見出せますが、外延的な定義(具体例)やその他外在的特徴(ジャンルに参画する意図、媒体、歴史的因果)による定義によっても道具的な説明が得られ、区分されます。

近世にもあった雅俗の区分。けれども…

 近世にもすでに雅俗の区分はあり、漢詩、和歌、『源氏物語』『平家物語』など伝統的なスタイルのものが雅とされ、仮名草子、浄瑠璃のような新しいジャンルは俗とされていました。近世にもこのような価値観はあったのです。

 海外文学でも、パルプフィクションとかペニー・ドレッドフルとかダイムノベルとか媒体を中心に定義づけされる、低俗な文芸ジャンルがあり、そうした区分とも雅俗の区分は共通します。

 雅俗の区分、「純文学」「通俗小説」の区分など、そこに貴賤の価値観の慣習が存在していたということは事実です。そうではあるけれど「通俗小説」という芸術におけるジャンルの中にも、アートワールドへの批評性に富んだ豊かな表現はしばしば見出せるのです。

 それは「小説」「映画」「ゲーム」「漫画」「アニメ」といった形式の異なる芸術内部の諸々のジャンルにおいてもそうで、そんな気持ちからこの雑多なレビューブログも運営しております。

参考文献

松永伸司『ビデオゲームの美学』(慶応義塾大学出版会.2018)

ロバート=ステッカー著 森功次訳『分析美学入門』(頸草書房.2013)

小谷野敦『久米正雄伝 微苦笑の人』(中央公論社.2011)

中村幸彦『近世小説史の研究』(桜楓社.1973)

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