始めに
チェルヌイシェフスキー『何をなすべきか』解説あらすじを書いていきます。
背景知識、語りの構造
チェルヌイシェフスキーの作家性
チェルヌイシェフスキーの思想的根幹である唯物論は、ドイツの哲学者フォイエルバッハから最も強い影響を受けています。宗教や形而上学を否定し、人間を自然の一部として捉える人間学的唯物論です。彼の修士論文『芸術の現実に対する審美的関係』において、「美は生活である」と断じた背景には、フォイエルバッハ的な現実こそが理念に勝るという確信がありました。
またシャルル・フーリエやアンリ・ド・サン=シモンといったフランスの思想家たちが描いたユートピア像に深く傾倒しました。共同体(ファランジュ)による労働と生活の組織化です。『何をなすべきか?』に登場する共同作業所や、有名な「ヴェーラ・パヴロヴナの第四の夢」で描かれる水晶宮のような未来社会の描写に、フーリエ主義の影響が色濃く現れています。
フランスの女性作家ジョルジュ・サンドは、彼の倫理観や女性観に大きな影響を与えました。既存の結婚制度や道徳に縛られない女性の自立と誠実な人間関係の追求です。『何をなすべきか?』における男女の対等なパートナーシップや、嫉妬を克服した理性的関係の描写は、サンドが提起した問題をさらに過激に、かつ合理主義的に発展させたものと言えます。
青年期の彼にとって、ロシアの批評家ヴィッサリオン・ベリンスキーと、亡命思想家アレクサンドル・ゲルツェンは精神的な師でした。 文学は社会の現実を告発し、変革に寄与すべきであるという社会派の使命感を継承しました。ロシア伝統の農村共同体(オブシチナ)を基盤に、資本主義の段階を飛び越えて社会主義へ移行できるという思想に影響を受けました。
彼はイギリスの古典派経済学を徹底的に研究し、それを批判的に受容しました。特にデヴィッド・リカードの労働価値説や、ジョン・スチュアート・ミルの理論を深く検討しました。ミルの『政治経済学原理』に膨大な注釈を付して翻訳し、資本家ではなく「労働者の利益」を最大化するための経済モデルを構想しました。
合理的利己主義
合理的な利己主義が物語の根底にある哲学的なテーマです。チェルヌイシェフスキーは、人間の行動はすべて利己心に基づくと考えましたが、それを否定しませんでした。自分の幸福を追求することが、結果として他者や社会全体の幸福につながるという考え方です。
登場人物たちは自分がそうしたいから(それが合理的で自分にとっても心地よいから)という理由で、自己犠牲を伴うような利他的な行動をとります。これは、旧来のキリスト教的な道徳に対する強烈なアンチテーゼでした。
理想的人間。ユートピア
当時のロシア社会に蔓延していた余計者に代わる、新しい理想的人間像を描いています。ヴェーラ、ロプホフ、キルサーノフは知的で自立しており、労働を愛し、因習に縛られずに理性的に問題を解決する人々です。ラフメートフは特別な人間として描かれる人物で、革命のために私生活を一切排除し、釘のベッドで寝るなどの過酷な鍛錬を積みます。彼は後のプロフェッショナルな革命家モデルとなりました。
当時のロシア文学としては画期的なほど、女性の権利と自立が中心的なテーマとなっています。主人公ヴェーラ・パヴロヴナが、親が決めた結婚や家父長制の抑圧から、偽装結婚を通じて逃れ、自らの人生を切り開く姿を描いています。ヴェーラが設立した縫製裁断作業所は、利益を等分する協同組合方式をとっています。経済的な自立こそが、女性の真の自由を保障するという思想が反映されています。
物語の中でヴェーラが見る「4つの夢」のうち、特に第4の夢は重要です。 科学技術が発展し、人々が水晶宮(クリスタル・パレス)のような建物で共同生活を送り、機械化された農業で豊かに暮らす未来の共産主義社会を描いています。この楽観的な理性万能主義と科学への信頼は、後にドストエフスキーが『地下室の手記』で水晶宮を壊してやると猛烈に批判する対象となりました。
物語世界
あらすじ
主人公のヴェーラ・パヴロヴナは、娘を金持ちに売り飛ばそうとする強欲な母親の支配下にありました。彼女を救い出したのは、家庭教師として出入りしていた医学生のロプホフです。二人は偽装結婚という手段でヴェーラを実家から連れ出し、サンクトペテルブルクで新生活を始めます。
彼らの生活は、当時としては極めて前衛的でした。互いの自律を重んじ、それぞれの個室には許可なく入らないというルールを設けます。ヴェーラは自ら縫製裁断作業所を設立。利益を分配する協同組合方式を導入し、女性たちの経済的解放を実践します。
平穏な生活の中、ヴェーラはロプホフの親友である医者キルサーノフに恋をしてしまいます。ここで物語は、従来の不倫や嫉妬といったドラマチックな泥沼を拒否します。
ロプホフは合理的な利己主義に基づき、自分が身を引くことが全員の幸福になると判断します。ロプホフは自ら失踪して自殺を装い、ヴェーラを法的に自由にします。これにより、ヴェーラとキルサーノフは晴れて結ばれることになります。
物語の中盤、ヴェーラの動揺を鎮め、物語の思想的支柱を補強するために現れるのが、貴族出身の革命家ラフメートフです。彼は新しい人間をさらに超えた特別な人間として描かれます。生肉を食べ、釘のベッドで寝るなど、将来の革命という大義のために私生活のすべてを犠牲にします。彼はプロット上の必然性は薄いものの、読者に対して真の革命家とはこうあるべきだという強烈な範を示しました。
ヴェーラは作中で4つの象徴的な夢を見ます。白眉は最後に見る第四の夢です。そこでは、科学技術が極限まで発達し、アルミニウムとガラスでできた水晶宮で人々が歌いながら共同労働に励む、黄金時代の未来社会が描かれます。これは、社会主義的ユートピアの文学的視覚化でした。
物語の結末で、アメリカに渡っていたロプホフが、別の名前を名乗り、新しい妻を連れてロシアに戻ってきます。二組の夫婦は互いに交流し、嫉妬もわだかまりもなく、合理的で幸福な共同生活を送ります。




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