始めに
井上靖『天平の甍』解説あらすじを書いていきます。
背景知識、語りの構造
モダニズム、中間小説
井上靖はシャルルルイ=フィリップ、芥川、谷崎、ヴァレリーなどから影響が大きく、その象徴主義やモダニズム的な形式主義的実験や端正なスタイルを継承しました。
作品には古典的な内容に題材をとるものや時事的な内容を扱うものまでバラエティー豊かです。古典的な題材のものには谷崎や芥川も試みた中国を題材にするものも多いです。モダニズムらしく、視覚的な、さながら映画的なイメージに訴えかけてくる演出の作品も多いのも特徴です。
1907年5月6日北海道上川郡旭川町に軍医・井上隼雄と八重の長男として生まれ、井上家は静岡県伊豆湯ヶ島で代々続く医家でした。父・隼雄は現在の伊豆市門野原の旧家出身であり井上家の婿でしたが転勤が多かったため、幼少期は家族と離れ、戸籍上の祖母と伊豆湯ケ島で暮らしました。これは自伝的作品の背景です。
仏教伝来の苦心
物語の核となるのは、戒律を日本に伝えるために鑑真和上を招聘しようとする留学僧たちの苦闘です。鑑真は失敗と失明を乗り越えて来日を果たすプロセスの果てに、個人の利益を超えた崇高な使命を果たします。
異国の地で客死する者、志半ばで道を変える者など歴史の表舞台には残らない無名の僧侶たちが、一つの文化を伝えるためにどれほどの人生を捧げたかが描かれています。
当時の遣唐使船での渡海は命がけでした。経典一巻、瓦一枚を日本に持ち帰ることが、どれほど過酷で、どれほど多くの犠牲の上に成り立っていたかが描かれます。
タイトルは唐招提寺の金堂にある「天平の甍(いらか)」と称される鴟尾のことです。
それぞれの留学僧
4人の留学僧(普照、栄叡、玄朗、戒融)のそれぞれの生き方が描かれます。
栄叡は堂々たる男で職務のために懸命に努力しましたが体調を崩し、広州へ行って日本への船便を得ようとしましたが亡くなります。最終的に、鑑真を伴って日本に帰ったのは普照でした。
物語世界
あらすじ
天平4年、聖武天皇のとき、朝廷で第9次遣唐使発遣が議せられます。
興福寺の僧栄叡と大安寺の僧普照の二人が留学僧のとして渡唐します。栄叡は、大柄で40歳位に見えるものの、まだ30歳ほどです。普照は、小柄で年齢も栄叡より2つ程若いのでした。
遣唐使船が出発するにあたり、二人の他に戒融、玄朗という留学僧も加わりました。
遣唐使船は四ヶ月で中国大陸の蘇州に辿り着き、洛陽についた二人は、玄昉や吉備真備そして阿倍仲麻呂など著名人と遭遇します。三人は遣唐使として717年に先に入唐していました。
栄叡と普照が、鑑真の弟子道抗の紹介で揚州大明寺の鑑真に初めて会い、日本に戒律を教える人がいないので適当な伝戒の師の推薦を賜りたいと頼みます。
鑑真は長屋王から千の袈裟を送られていたのを知っていて、弟子たちに日本に渡るものがいないかと聞きましたが、誰もいません。
そこで鑑真は、お前たちが行かないなら私が行くことにしようと言い、鑑真と17名の高弟が日本に渡ることになります。
743年の第1回目渡航計画は、高麗僧如海の密告により失敗します。当時、許可のない海外渡航は認められませんでした。
同じ年の第2回目は、鑑真が八十貫の銭を費用に渡航しましたが、難破します。
744年の第3回目も密告され、栄叡が逮捕されます。第4回目も霊祐の密告でまた失敗します。
748年の第5回目に渡航し、60余人が14日間漂流して、南の海南島に着きます。
この島の大雲寺に仏殿を制作し、天宝8年(749年)を迎える4カ月過ごします。仏具、仏像、経典などを大雲寺に納めました。
栄叡は体調を崩し、広州へ行って日本への船便を得ようとしましたが亡くなります。最終的に、鑑真を伴って日本に帰ったのは普照でした。




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