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中島敦『光と風と夢』解説あらすじ

中島敦
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始めに

 中島敦『光と風と夢』解説あらすじを書いていきます。

背景知識、語りの構造

象徴主義などの影響

 中島敦は傾向として象徴主義、ロマン主義、また中国の伝奇文学などの影響が顕著です。

 具体的には永井荷風、谷崎潤一郎、上田敏、森鷗外、ポー、ボードレール、ワイルドなどで、その象徴主義、ロマン主義に影響されました。卒論も耽美派の谷崎を論じた「耽美派の研究」でした。

 他にもデイヴィッド=ガーネット、アナトール=フランス、ラフカディオ=ハーン、カフカ、オルダス=ハクスリー、ゲーテなど、幻想文学要素をはらむ作品、寓意的作品に多く親しみました。

 中国文学では列子、荘子、韓非子、王維、高青邱の寓話などに親しみました。

スティーヴンスン

 本作は『宝島』『ジキル博士とハイド氏』で知られるスティーヴンスンの晩年を描く内容です。

 1887年5月に父が亡くなったのち、8月には妻子を伴いアメリカ移住し、転地先を求め、1888年にマルキーズ諸島のヌク=ヒバ島、パウモトゥ諸島、ギルバート諸島を訪れ、1889年にハワイ諸島を訪問した後、1890年10月に家族とともに南太平洋のサモア諸島中のウポル島に移住し、余生をそこで過ごしました。島人から「ツシタラ(語り部)」として好かれ、穏やかにそこで暮らしました。

 本作はそうした伝記的背景を踏まえてものされていて、晩年のスティーブンスンの日記という体裁です。

語りの構造

 本作の語りの構造ですが、異質物語世界の外枠と、スティーヴンスンの日記の部分から構成されます。

 外枠では、スティーヴンスンに迫る死と、死後の弔いまでが描かれていき、それと並行してスティーヴンスンの日記のパートが展開される、という内容になっています。

創作哲学

 本作は、スティーヴンスンを主たる語り手としつつ、そこに美学的考察を展開しています。

 本作では「筋のない小説」について言及が見え、これは芥川と谷崎の論争を踏まえるものです。

 この芥川対谷崎論争の発端は、1927年2月に催された『新潮』座談会における芥川の発言で、谷崎「日本に於けるクリップン事件」その他を批評して「話の筋というものが芸術的なものかどうか、非常に疑問だ」、「筋の面白さが作品そのものの芸術的価値を強めるということはない」と語り、プロットに重きを置く谷崎と論戦になりました。

 中島敦自身も、谷崎に近いプロットを重んじるスタンスで、本作でもスティーブンスンは以下のように感慨を述べます。

「筋の無い小説」という不思議なものに就いて考えて見たが、よく解らぬ。文壇から余りに久しく遠ざかっていたため、私には最早若い人達の言葉が理解できなくなって了ったのだろうか。私一個にとっては、作品の「筋」乃至ないし「話」は、脊椎動物に於ける脊椎の如きものとしか思われない。「小説中に於ける事件」への蔑視べっしということは、子供が無理に成人っぽく見られようとする時に示す一つの擬態ではないのか? クラリッサ・ハアロウとロビンソン・クルーソーとを比較せよ。「そりゃ、前者は芸術品で、後者は通俗も通俗、幼稚なお伽とぎ話ばなしじゃないか」と、誰でも云うに決っている。宜しい。確かに、それは真実である。私も此の意見を絶対に支持する。ただ、此の言を為した所の人が、果して、クラリッサ・ハアロウを一度でも通読したことがあるか、どうか。又、ロビンソン・クルーソーを五回以上読んだことがないか、どうか、それが些いささか疑わしいだけのことだ。
 之は非常にむずかしい問題だ。ただ云えることは、真実性と興味性とを共に完全に備えたものが、真の叙事詩だということだ。之をモツァルトの音楽に聴け。
 ロビンソン・クルーソーといえば、当然、私の「宝島」が問題になる。あの作品の価値に就いては暫く之を措おくとするも、あの作品に私が全力を注いだという事を大抵の人が信じて呉れないのは、不思議だ。後に「誘拐」や「マァスタア・オヴ・バラントレエ」を書いた時と同じ真剣さで、私はあの書物を書いた。おかしいことに、あれを書いている間ずっと、私は、それが少年の為の読物であることをすっかり忘れていたらしいのだ。私は今でも、私の最初の長篇たる・あの少年読物が嫌いではない。世間は解って呉れないのだ、私が子供であることを。所で、私の中の子供を認める人達は、今度は、私が同時に成人だということを理解して呉れないのだ。
 成人、子供、ということで、もう一つ。英国の下手な小説と、仏蘭西フランスの巧うまい小説に就いて。(仏蘭西人はどうして、あんなに小説が巧いんだろう?)マダム・ボヴァリイは疑もなく傑作だ。オリヴァア・トゥイストは、何という子供じみた家庭小説であることか! しかも、私は思う。成人の小説を書いたフロオベェルよりも、子供の物語を残したディッケンズの方が、成人なのではないか、と。但し、此の考え方にも危険はある。斯かかる意味の成人は、結局何も書かぬことになりはしないか? ウィリアム・シェイクスピア氏が成長してアール・オヴ・チャタムとなり、チャタム卿が成長して名も無き一市井人となる。(?)

 同じ言葉で、めいめい勝手な違った事柄を指したり、同じ事柄を各々違った、しかつめらしい言葉で表現したりして、人々は飽きずに争論を繰返している。文明から離れていると、この事の莫迦ばからしさが一層はっきりして来る。心理学も認識論も未だ押寄せて来ない此の離れ島のツシタラにとっては、リアリズムの、ロマンティシズムのと、所詮は、技巧上の問題としか思えぬ。読者を引入れる・引入れ方の相違だ。読者を納得させるのがリアリズム。読者を魅するものがロマンティシズム。

 このように、文学論争から距離をおき、リアリズム、ロマンティシズムの優劣を価値観の相違と相対的にとらえ、物語の因果、プロットを小説や物語の本質と見て、それを人間に根源的なものとして捉える思考をみて取れます。

物語世界

あらすじ

 『光と風と夢』は、晩年、南洋・サモアに移り住んだスティーブンソンの記した日記という形です。

 35歳で激しい喀血に襲われたスティーブンソンは、各地を転々としながら海と島々と土人達と、島の生活と気候とが、私を本当に幸福にしてくれるだろう、とサモアでの暮らしを決めました。

 美しい南洋の自然に囲まれた生活を送りながらも、さまざまな悲喜劇を目の当たりにします。そしてその土地の人々とともに生き、思索します。

 やがて亡くなると、偉大なツシタラとして、スティーブンスンは現地の人に弔われます。

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