始めに
ヴァレリー『海辺の墓地』解説あらすじを書いていきます。
背景知識、語りの構造
ヴァレリーの作家性
マラルメはヴァレリーにとって最大の決定的な精神的師匠です。言語の純粋性、詩の構成における厳密な美学を学びました。
またヴァレリーはポーを文学における方法論の先駆者として神格化していました。特にポーの理論的著作である『詩の原理』や『構成の原理』、そして宇宙論的な『ユリイカ』に衝撃を受けました。
ダヴィンチは作家という枠を超えて、ヴァレリーが理想とした精神のモデルです。『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法序説』という評論を書くほど彼に心酔していました。
哲学の面では、デカルトの我思うゆえに我ありという自己意識の徹底が、ヴァレリーの根底に流れています。自分の精神がどのように機能しているかを客観的に観察する方法へのこだわりは、デカルト的な合理主義の延長線上にあります。
ジョリスカルル=ユイスマンスは若き日のヴァレリーが、唯美主義的な感覚を磨く際に耽読しました。ランボーからは初期に強い衝撃を受けましたが、後にその逸脱のエネルギーよりも、秩序ある構築の方へと惹かれていきました。
墓地と思弁
詩の冒頭、正午の太陽が照りつける海辺の墓地は、完璧な静止の状態として描かれます。正午の太陽は影がなく、変化のない絶対的な知性や永遠を象徴します。海はきらめく屋根のように見え、一見静止していますが、その下には絶え間ない動きが隠されています。 ヴァレリーはここで、変化のない完璧な思考の世界と、常に揺れ動く現実の世界の対比を描き出しました。
ヴァレリーは、墓地で死者を想う自分自身を観察します。肉体は滅び、土に還る。しかし、それを観察する意識だけが透明に存在している。この意識の純粋さを突き詰めると、人間らしい感情や肉体から切り離された、冷徹で空虚な状態に至るというパラドックスが提示されます。
死と生を突き付ける現実
中盤では、美化されない死のリアリティが登場します。墓の下で土に還る肉体、そしてそれを食らう蟲のイメージです。ヴァレリーにとって、この蟲は単なる死の象徴ではなく、絶えず何かを考え、蝕んでいく自己意識の比喩でもあります。思考そのものが、生を食いつぶす残酷なものであるという認識です。
詩の結末は、あまりにも有名なあの一節で締めくくられます。「風立ちぬ。生きようとしなければならない」と。それまで静止していた大気が動き出し、海が波打ち始めます。完璧ではあるが死に近い純粋思考の中に留まるのではなく、不完全で、苦痛もあり、変化し続ける生の真っ只中へ飛び込むことを、ヴァレリーは最後に選択します。
物語世界
あらすじ
舞台は南仏セットの海辺にある墓地。時刻は影が消える正午。海面は太陽に照らされ、まるで鳩(白い帆)が遊ぶ動かない屋根のように見えます。
語り手は、この完璧で静止した風景に没入し、自分自身も純粋な思考そのものになろうとします。変化のない永遠や絶対に憧れる、極めて知的な陶酔状態です。
ふと足元に目を向けると、そこには墓の下で土に還っていく死者たちがいます。永遠の太陽や海とは対照的に、人間は朽ち果て、虫に食われる存在であることを痛感します。ここで思考する自分もまた、死にゆく肉体を持っていることを思い出し、先ほどの完璧な静止状態に苦みを感じ始めます。
彼は気づきます。墓の下の死者を食らう蟲よりも、生きながらにして自分の生を蝕む、鋭すぎる自意識の方が残酷ではないか、と。完璧すぎる知性は、かえって生きるエネルギーを奪い、精神を静止した死の状態へ追い込んでしまいます。このまま純粋思考の中に留まることは、精神的な死を意味するという危機感に襲われます。
そのとき、静止していた大気に風が吹き抜けます。海面が波立ち、それまで屋根に見えていた海が、荒々しい生命の塊へと姿を変えます。彼は叫びます。 「風立ちぬ。生きようとしなければならない!」と。



コメント