始めに
古井由吉『妻隠』解説あらすじを書いていきます。
背景知識、語りの構造
ドイツ文学の影響
古井由吉はドイツ文学を創作の背景とします。カフカ、ブロッホ、ムージル、リルケなどからの影響が特に大きいですが、シュトルム、シュテフィター、ロートなどからの影響もあります。
ムージルの内面描写、心理描写の影響は大きいですが、リルケの徹底した観察の眼差しからの感化もあります。
他にも漱石、荷風、葛西善蔵、嘉村礒多などからの影響があります。
モダニズムと文化人類学
フレイザー『金枝篇』がT=S=エリオット『荒地』に導入されて以降、作家は語りの手法に民俗学、社会学的アプローチをも積極的に取り入れるようになっていきました。フォークナーに見えるアナール学派的な、中央の事件史に抗する心性史としての歴史記述のアプローチは、ポストコロニアルな主題を孕み、ガルシア=マルケス『族長の秋』『百年の孤独』などラテンアメリカ文学に継承されました。
旧来的な中央の事件史としての歴史記述においては、歴史の構造的理解に欠き、そこから捨象される要素が大きすぎましたが、アナール学派は特定のトポスに焦点を当てたり、ミクロなアクターの視点に注目したりして、歴史の構造的把握と、歴史を構成するアクターの単位の修正を図りました。
古井由吉のテクストも、そのようなモードの影響が見て取れ、語り手や視点人物の意識の流れを非線形に追いかけながら、現象的な経験のなかで心性史としての物語が綴られていきます。
一人称的な視点の不確かさを活かす心理劇
本作品とコンセプトとして重なるのは漱石『こころ』やロブグリエ『嫉妬』、谷崎潤一郎『卍』『痴人の愛』、芥川『藪の中』、フォークナー『響きと怒り』、リンチ監督『ブルーベルベット』などと言えます。集合行為における一部のアクターを語りの主体にしたり、または一部のアクターにしか焦点化をしないために、読者も登場人物と同様、作中の事実に不確かな認識しか得られるところがなく、限定的なリソースの中で解釈をはかっていくことしかできません。
このような朦朧とした語りは古井の得意とするところで、不確かな認識の中で一人称的な視点を通じて生活世界を描いていきます。
タイトルの意味
タイトルの「妻隠」とは、相愛の男女が同棲することで、本作もそのような同棲生活を描いています。
主人公の寿夫と妻の礼子の暮らしを描いていて、二人の間に俄に疑心暗鬼が起こり、緊張が起こったときのことを描いています。
プロットを中心に追いかけるよりも、二人の関係の周辺的な世界を内省的に綴っていく内容です。寿夫に焦点化が設定され、彼の内面が意識のながれのような手法でフラッシュバックをも展開しながら、反省的につづられていきます。
嗅覚
本作は世界の記述において、嗅覚的シグナルが多用されています。
礼子と寿夫のもとに近所に住む老婆がやってきて、「集会」にそれぞれが招かれそうになったことで、二人の間にやや緊張が起こります。お互いに他の相手を探すように集会へ来るようにと老婆からすすめられますが、ただ勧誘するために適当な事を言っているだけなのかも知れません。寿夫は、いいカモだと見るとああいう連中(老婆)は口から出まかせを言うのであって、その手の嗅覚を持っているのだと礼子に語って見せます。
その後、妻が寝息を立てた姿に、長いこと忘れていた男女の隠っているにおいを嗅ぎ取ったと寿夫は感じます。においの中で別れ話をする口調で、結婚生活を始める相談をしたことがありました。未練などという余情はなく、馴染みすぎた者どうしの濃い羞恥が残って、別れると恥ずかしい片割れが歩いていく姿に苦しめられ、そのうち彼の就職が決まり、近親者どうしのような陰湿な目を見かわし、それから五年、今では人並みな夫婦になりました。しかし友人の家から戻ってドアを開けると、同棲のにおいがすると妻に言って眉を顰められたことがあり、老婆はそのにおいを嗅ぎつけのかもしれません。
このように嗅覚的指標が反省的思考を構成しています。
物語世界
あらすじ
アパートの裏手の林の繁みから老婆が出てきます。寿夫は正午にアパート横の共同流し場近くに立っており、ヒロシ君が家にいるかと問われますが、それは隣の若い職人たちの寮にいる男なので知らないと答えます。彼らは毎朝小型トラックに乗って仕事に出かけ、夕方戻ると食事をしてまた新開地に戻ります。
入れ替わりにアパートでテレビの音が聞こえ出し、深夜にまた若者らが騒ぎながら帰ります。老婆は日曜なのに出かけたのかと聞くものの、寿夫は皆でどこか出かけたと答えます。
寿夫は東北の出らしいヒロシという少年を去年の春から見かけていました。毎晩年上の同僚たちに酒を飲まされたりからかわれたりしますが、やがて彼らを相手にクダを巻くようになったらしいのです。老婆は仲間が悪いねえと言いつつ、仕事のない時につまらない事をしていてはだめで、心の楽しむことをするべきだ、と寿夫にも話します。心がけさえ改めればいい嫁を世話するから、夕飯後の集まりに来なさいと寿夫を眺めまわして去ります。
部屋に戻ると妻の礼子が、ばあさんに勧誘されていたのかと訊ねるので、心を入れ替えたら嫁さんを世話してくれるらしいと答えます。見なれない婆さんだったと話すと、あなたはこのアパートに住む人たちのことも知らないだろうと言います。
寿夫は最近、熱を出して仕事を休んでいました。二人は五年前からここに棲んでいますが、その半年前までは学生同士ほとんど誰とも会わずに一間のアパートにいました。
寿夫は月曜朝に倦怠感に襲われ、電車で出勤したものの医療室に運ばれます。白衣の男に帰って休むようにと言われ帰りますが、玄関で返事がないので自分の鍵で入り寝床に転がり込みます。
どこか見知らぬ部屋に寝かされて眠りに落ち、意識が混濁し、また医療室にいました。たまたま道端で見つけられ、また見知らぬ部屋に運び込まれたと思っているうちふたたび車で運ばれる事が一晩中繰り返されます。翌朝、ようやくいつもの家で寝ていることに気づきます。
昼食後に寝そべっていると妻が郷里の桃を出してくれます。寿夫は子供も財産もない二間だけの部屋で、家刀自の妻の姿を意識すると奇妙な気持になります。どの窓のうちにも一人ずつ女(=妻)がこもり、日常の事を真剣に見つめながら濃密に煮つめていくのでした。
桃はヒロシ君が病気見舞いで持って来たそうです。あの日寿夫が炎天下に家に帰ってきた時、畑のへりで彼が見ていたそうです。妻が夫のひどい状態を知り表に走り出たら彼がいてお医者さんのところに飛んで行ったのでした。
礼子はあの婆さんと話したことがあるそうです。寿夫のことを病人みたいだったと、昔自分が亭主に急に死なれた時のことを話したそうです。寿夫は呆れて被害妄想のようになり、いいカモだと見るとああいう連中は口から出まかせを言うのであって、その手の嗅覚を持っているのだと言い、夫に先立たれて望みを失った人がまた生甲斐を取り戻したとかそんな話と言いかけます。
二人はこれ以上問いつめれば心の内で犯した不実を責め合うより他にないものの、十年間別れずにきた男女の平衡感覚で立ち止まります。二人は畑沿いの道をしばらく眺めていたものの、もう物をいう気力もありません。
そして妻が寝息を立てた姿に、長いこと忘れていた男女の隠っているにおいを嗅ぎ取ったと感じます。においの中で別れ話をする口調で、結婚生活を始める相談をしたことがありました。未練などという余情はなく、馴染みすぎた者どうしの濃い羞恥が残って、別れると恥ずかしい片割れが歩いていく姿に苦しめられ、そのうち彼の就職が決まり、近親者どうしのような陰湿な目を見かわし、それから五年、今では人並みな夫婦になりました。しかし友人の家から戻ってドアを開けると、同棲のにおいがすると妻に言って眉を顰められたことがあり、婆さんはそのにおいを嗅ぎつけのかもしれません。
部屋は暗さをまし、妻はこの一週間の疲れからか眠りこけています。寿夫は散歩に出ます。マッチ箱のような家やテラスを張り出した邸宅があり、どの家も庭に草花を植えていて生活欲を感じます。自分たちにはそれがないのかもしれません。
一本道の向こうから若い男が数人やって来て、一番後ろにヒロシがいて、寿夫は声をかけます。婆さんが探していたことを知らせると、すみませんと言って仲間のところに戻ります。
部屋に帰るとまだ明かりは灯っていなかったものの、礼子はようやく起きます。円熟しかかった女のしるしを胸にも腰にもあらわしながら、子供のような顔でいます。
夕食が終わり、礼子が台所で忙しく働き始め、風呂に入ってと言います。礼子は雑巾を手に戸棚の中を拭き、奥をのぞきこんでいました。
彼は玄関の脇にトイレと並んである風呂場に行きます。そこはミニチュア細工のように細かい神経が行き届き清潔ですが、なにか淫らな感じがします。
風呂から出て、入れ替わりに妻が入って行きます。彼が居間の襖を開けると、電燈が消え二組の蒲団がしかれ、男たちの猥歌がします。男たちは畑の暗がりにいて歌っています。ヒロシもいるようです。押しころした声が闇の底を流れはじめ、ゴーカンとの声が上がり、女の声を真似ながら軀をぶつけあっています。男たちが嬌声を立ててヒロシにまつわりつきます。その後、ヒロシの長い詠嘆が男たちの声をつつみこみ遠ざかります。
その時妻が、襖の向こうでゴミを捨てるのを忘れて、すぐ戻ってくるからと出て行きます。しばらくすると和やかな話し声が戻り、ヒロシが奥さんそのバケツ洗ってやるよ、奥さん酒呑まない、俺と奥さんはドーキョーなんだよと言います。寿夫がカーテンの隙間からのぞくと、礼子は少しだけと湯呑茶碗を傾けていました。終わると礼子のおやすみなさいの声がして、男たちは家の中へはいり、礼子が襖を静かに開け白い軀が流れるように入ってきます。
その時、外でヒロシ君と呼ぶ声があります。寿夫がこんな遅くまで集会をしているとつぶやくと、妻は熱心ねと答えて軀を寄せます。外の不愉快な声はふくらみを帯び、年齢を超えて女らしくなります。寿夫は礼子の声がまだ暗闇に漂っているような幻覚に引きこます。




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