始めに
ヨン・フォッセ『だれか、来る』解説あらすじを書いていきます。
背景知識、語りの構造
フォッセの作家性
フォッセのミニマリズムを形作る上で最も頻繁に言及されるのはサミュエル・ベケットです。不条理演劇の旗手であるベケットからは、極限まで削ぎ落とされた言葉や、沈黙の活用、そして反復されるリズムを継承しています。しかし、ベケットが虚無や絶望の深淵を描いたのに対し、フォッセの作品にはどこか救済や光の予兆、彼自身の言葉で言うところの静かな輝きが漂っている点が特徴的です。
同じく強い影響を与えた存在として、オーストリアの作家トーマス=ベルンハルトが挙げられます。フォッセはベルンハルトの、執拗なまでの反復と音楽的な文章構成に深く共鳴しました。物語の筋よりも、言葉の連なりが生み出す旋律や、意識の変遷を重視する姿勢は、フォッセの散文作品において顕著に表れています。またカフカの描く疎外感や、出口のない不確かな状況設定も、フォッセの戯曲における閉鎖的な空間造形に影を落としています。
ほかにクヌート・ハムスンの初期作品に見られる叙情性と、タルイェイ・ヴェーソースの静謐なモダニズムが、彼の文学的土壌を耕しました。特にヴェーソースの、自然と人間の内面を等価に扱う沈黙の描写は、フォッセの書かれない言葉への信頼に繋がっています。さらに、文学以外の領域では、マイスター・エックハルトのような中世の神秘主義思想や、カトリックへの改宗以前から彼の中にあった言い得ぬものへの渇望が、詩的な文体の根底に流れています。ジョージ・トラクルの詩が持つ色彩豊かな憂鬱や、クロード・シモンに見られるような、時間の流れを空間的に捉え直す手法も、彼の重層的な散文の魅力を支える重要な要素です。
二人きりの世界
物語の出発点となるのは、人里離れた海辺の古い家を買った男と女が、そこで二人きりになろうとする試みです。彼らが求めるのは、外界から遮断された純粋な孤独と、互いだけが存在する親密な空間ですが、この二人きりという願望そのものが、裏返しの強迫観念を生み出します。彼らが何度も口にする「誰も来ない」「二人きりだ」という言葉は、安堵の確認であると同時に、いつか必ず誰かがやってきて、自分たちの静寂を切り裂くのではないかという予兆への恐怖に他なりません。フォッセはここで、静寂を求める心が、皮肉にも最も騒がしい不安を呼び寄せてしまうというパラドックスを描き出しています。
テーマは、嫉妬という感情の不条理なまでの増幅です。実際に誰か(家の前の持ち主の孫)が現れたとき、それまで抽象的だった不安は、具体的な嫉妬と猜疑心へと変貌します。男は女がその男に関心を持つことを恐れ、女もまた侵入者の存在に動揺します。しかし、この嫉妬は単なる痴話喧嘩のレベルに留まるものではありません。それは、自分たちが支配していると思っていた空間や関係性が、いかに脆く、第三者の視線一つで容易に崩れ去るものであるかという、存在論的な危うさを突きつけています。フォッセのミニマリズム的な文体は、登場人物たちの言葉の端々に潜む、剥き出しの独占欲と、それを維持できないことへの絶望を浮き彫りにします。
古い家。言葉
また、この作品における古い家という舞台装置も、単なる背景以上の意味を持っています。家にはかつてそこに住んでいた人々の痕跡や気配が染み付いており、新しくやってきた二人は、その場所の歴史から逃れることができません。彼らが新しい生活を始めようとしても、建物自体が持つ過去の重みが、彼らの純粋な現在を侵食していきます。これは、人間が歴史や文脈から切り離された真空の幸福を享受することの難しさを暗示しており、フォッセが得意とする、空間と時間が交差する地点での人間の孤独というテーマが深く反映されています。
言葉そのものの機能不全も重要なテーマです。登場人物たちは同じ言葉を執拗に繰り返しますが、それは意思疎通のためというよりも、沈黙がもたらす恐怖から逃れるための呪文のような役割を果たしています。語れば語るほど、二人の間の距離は埋まるどころか、むしろ深淵が露呈していく。この語り得ぬものを言葉の集積によって描き出す手法は、まさにフォッセがベケットらから受け継ぎ、独自に昇華させた詩的リアリズムの真髄です。
物語世界
あらすじ
海が見える人里離れた場所に建つ、古びて打ち捨てられたような一軒家。そこに、ある「男」と「女」がやってくるところから物語は始まります。二人は外界との接触を一切断ち切り、ただ二人きりで静かに暮らすためにこの家を買い取ったのでした。家へと向かう道中、そして家に足を踏み入れてからも、二人は祈りのように、あるいは強迫観念に突き動かされるように「私たちは二人きりだ」「他の誰もいない」「二人だけで一緒にいるんだ」という言葉を何度も反復し、互いの存在を確認し合います。
しかし、その親密な沈黙の中には、最初から拭い去ることのできない不穏な予感が漂っています。特に女は、まだ誰も姿を見せていないうちから誰かが来るという確信に近い予感に怯え、男はその不安を打ち消そうと躍起になります。彼らにとってこの家は、愛を完成させるための聖域であるはずでしたが、同時にその閉鎖性は、外部からの視線や侵入者に対してあまりにも脆弱なものでした。
その予感は、この家の前の持ち主の孫である男が実際に姿を現すことで、現実のものとなります。やってきた男は、家の状態について世間話をしたり、かつての生活の断片を語ったりするだけの、一見すれば単なる訪問者に過ぎません。しかし、この第三者の介入によって、それまで二人の間だけで完結していた世界の均衡は一瞬にして崩壊します。
女の中に芽生える動揺と、それを見た男の中に燃え上がる激しい嫉妬。訪問者が去った後も、家の中に満ちていたはずの純粋な孤独はもはや取り戻せません。かつては静寂への期待に満ちていた二人きりという言葉は、今や他者の影に怯え、互いの不信感を隠蔽するための空虚な響きへと変質してしまいます。物語の結末においても、二人は依然としてその家に留まり、再び「二人きりだ」と言葉を交わしますが、そこには最初のような高揚感はありません。




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