始めに
ゴールディング『近接(Close Quarters)』解説あらすじを書いていきます。
背景知識、語りの構造
ギリシア悲劇、ミルトンの影響
ゴールディングは、ギリシャ悲劇やミルトンなどの影響を受けました。神話的、宗教的象徴のモチーフ、寓話的ストーリー、悲劇的物語などにおいて、その影響が見えます。
R.M. バランタインはゴールディングを語る上で最も重要な負の影響です。19世紀の冒険小説『サンゴ礁の島』は、イギリスの少年たちが無人島で文明的に、かつキリスト教的な徳を持って生き抜く物語でした。ゴールディングは第二次世界大戦での経験から、この無垢な少年たちという楽観的な人間観に強い違和感を抱きました。『蠅の王』は、実質的に『サンゴ礁の島』に対するアンチテーゼとして書かれています。
ゴールディングは古典文学に非常に造詣が深く、特にギリシャ悲劇の逃れられない運命や人間の内なる狂気というテーマに強く影響を受けています。またゴールディングは自身の作品を「寓話」と呼ぶことを嫌う傾向もありましたが、聖書的な象徴主義は随所に散りばめられています。
停滞の中で
本作の船は、前作以上にボロボロの状態です。船体は老朽化し、マストが折れ、海草が船底にまとわりついて船足を止めます。かつての輝かしいイギリス帝国や、旧来の価値観がゆっくりと崩壊していく象徴でもあります。船長たちの権威も揺らぎ始め、船内にはこのまま目的地に着けないのではないかという漠然とした不安と、規律の乱れが漂い始めます。
物語の多くは、風が止まり、船が海上で動けなくなる無風帯(ドルドラムズ)で展開します。前作が事件の連続だったのに対し、今作は何も起きないことへの恐怖が描かれます。外界の動きが止まることで、タルボットの意識は自らの内面や過去、そして日記を書くという行為そのものへと向かっていきます。
タイトルの意味
本作の大きな転換点は、別の船アルシオーネ号との遭遇です。タルボットは、アルシオーネ号に乗っていた女性マニオンに一目惚れします。しかし、これは深い対話に基づいた愛ではなく、閉鎖空間で精神的に追い詰められた彼が見た理想の投影に近いものです。彼の恋は、過酷な現実から逃避するための甘い夢としての側面が強く、人間の感情がいかに環境に左右されやすいかが描かれます。
「近接(Close Quarters)」というタイトルは、物理的な距離の近さを意味しますが、同時に心理的な息苦しさも表しています。狭い船内で、嫌いな人間とも顔を合わせ続けなければなりません。逃げ場がないからこそ、タルボットは自分自身の醜さや弱さと至近距離で向き合わざるを得なくなります。
物語世界
あらすじ
コリー牧師の悲劇を乗り越え、船はオーストラリアへと進みますが、海上が無風状態(ドルドラムズ)になり、船はピタリと止まってしまいます。船体は老朽化し、船底には大量の海草が絡みついて重くなり、船はまるで腐敗していく生き物のように動きを失います。タルボットもまた、前作の傲慢さが影を潜め、退屈と船酔い、そして自分の内面との戦いに明け暮れます。
霧の中から、別のイギリス船アルシオーネ号が姿を現します。この遭遇が、どんよりとした物語に鮮やかな彩りを与えます。アルシオーネ号は、タルボットたちの船とは対照的に、清潔で秩序が保たれた文明の象徴のような美しい船でした。船同士が並走する中、タルボットはその船に乗っていた女性、マニオン=チャムリーに一目惚れしてしまいます。
タルボットは、彼女を女神のように崇め、恋に溺れます。二人は手紙を交わし、短い再会を果たしますが、それはあまりに束の間の出来事でした。この恋は、地獄のような船旅の中での唯一の救いであると同時に、極限状態の彼が見ている美しい幻のようにも描かれます。
やがて風が吹き始め、二つの船はそれぞれの目的地へ向かうために別れなければならなくなります。マニオンを乗せたアルシオーネ号は去り、タルボットは再び腐りゆく古い船という現実に引き戻されます。
物語の終盤、船のメインマストが折れるという致命的な事故が発生。船はもはや目的地に着けるかどうかさえ怪しい、絶望的な状況に陥ります。



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