始めに
サガン『一年ののち』あらすじを書いていきます。
背景知識、語りの構造
サガンの作家性
サガンはカミュ、サルトルの実存主義やプルースト、コクトーなどのモダニズムに影響されました。
プルーストの代表作は『失われた時を求めて』ですが、本名フランソワーズ=クアゼだったサガンは、プルーストの作品に登場するサガン公爵夫人から名前を取りました。時間や反ブルジョワ的テーマなどは重なりますが、カポーティ、三島や堀辰雄に似て、スタイルの方ではプルースト的な実験的語りはあまり設定しない傾向にあります。
サガンはまた、コクトーの難解なことを軽やかに表現するスタイルを愛しました。彼女の文章のシンプルさと洗練は、コクトーの美学から引き継がれたものです。
サガンの作品に漂う虚無感や不条理(無意味)に対する冷めた視点は、カミュの実存主義の影響が色濃いと言われています。サガンはサルトルの実存主義にも強く惹かれ、後に個人的な親交も結びました。
他にもスタンダールの心理主義やジュネのモダニズムからも刺激を受けました。
タイトルの意味
タイトルの「1年ののち」は、ラシーヌの悲劇『ベレニス』の一節(「ひと月の後、ひと年の後、われら如何に悩み苦しまん」)から取られています。今これほど苦しく、情熱的な愛も、1年経てば跡形もなく消えてしまうのです。絶望すらも長続きせず、人はただ忘れていくだけであるという、虚無的な死生観が根底に流れています。
登場人物たちは皆、パリの社交界で華やかに振る舞いながら、内面では耐えがたい「退屈」を抱えています。誰かと付き合い、別れ、また別の誰かと寝る。その繰り返しに深い意味はなく、単に孤独や退屈を紛らわせるための記号的な行為になっています。何かを強く勝ち取ろうとする情熱はなく、ただ流されるままに生きる若者や大人たちの姿は、戦後の虚脱したフランス社会の空気感(サン・ジェルマン・デ・プレの空気)を象徴しています。
本作には、純粋な青年から狡猾な大人まで多彩な人物が登場しますが、結局のところ彼らは自分を映す鏡としてしか他人を見ていません。自分が愛されたい、あるいは自分の価値を確認したいという欲求が先立ち、相手そのものを理解しようとする努力が欠落しています。
そんななかで、どんなに激しい愛も、時間が経てばどうでもよくなるという真理は、冷ややかな人間性の欠如として描かれます。
物語世界
あらすじ
物語の中心にいるのは、若く、どこか冷めた魅力を持つジョゼです。彼女は恋人のジャックを愛していながらも、作家のベルナールからの執拗なアプローチを拒みきれずに受け入れてしまいます。
ベルナールはすでに文壇で地位を築いていますが、私生活では献身的な妻ニコルを「善良すぎる」という理由で疎ましく感じ、若く奔放なジョゼに、失われゆく自分の若さや情熱を投影して執着します。ニコルはそのすべてを悟りながら、夫を繋ぎ止めることもできず、ただ夜の闇の中で彼が帰宅するのを待つだけの、静かな地獄のような日々を送っています。
もう一人の焦点となるのが女優志望のベアトリスです。彼女は野心的で、プロデューサーのジョリエに身体を許して役を掴もうとする一方で、純粋な青年エドゥアールからの熱烈な愛を、自分を輝かせるためのアクセサリーのように利用します。エドゥアールはベアトリスの嘘や計算をすべて知りながらも、彼女なしでは生きていけないという錯覚に陥り、自らを精神的に追い詰めていきます。
このベアトリスを巡って、編集者のアランもまた、妻のファニーがいながら彼女に溺れ、家庭を壊していきます。
彼らは夜な夜な、マリグラッスの家や酒場に集まりますが、そこにあるのは互いを利用し、あるいは互いに背を向けながら、自分の孤独を確認し合うような時間です。
終盤、病からついにマリグラッスが亡くなり、一つの時代が終わるかのような静寂が訪れます。ベルナールとジョゼの情事は、結局のところ深い愛に昇華されることなく、泥沼の執着を経て、ある種の飽きとともに終わりを迎えます。エドゥアールはベアトリスに捨てられ、かつての熱狂は嘘のように消え去ります。彼らがかつてあんなにも激しく求め合い、傷つけ合った事実は、季節が巡るのと同じように自然に、記憶の隅へと追いやられます。
最後、ジョゼとベルナールが再会したとき、二人の間には以前のような火花は散りません。そこに漂うのは、私たちはかつて愛し合っていたのかもしれないが、今はもう別の人間だという冷ややかな認識です。あの苦しみも、不眠の夜も、嫉妬の炎も、「一年ののち」には何も残らないのでした。




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