はじめに
石原慎太郎「太陽の季節」解説あらすじを書いていきます。
語りの構造、背景知識
ラディゲ、コクトー、ヘミングウェイなどモダニズムの影響
石原慎太郎はフランス文学や米文学からの影響が強く、特にラディゲ(『ドルジェル伯の舞踏会』『肉体の悪魔』)、コクトー(『恐るべき子供たち』)のような古典主義者、ヘミングウェイ(『移動祝祭日』『日はまた昇る』)といったモダニズム、行動主義の作家からの影響が顕著です。
ラディゲ(『ドルジェル伯の舞踏会』『肉体の悪魔』)作品のような肉体的な世界の中でのメロドラマが印象的です。
また本作品も、ボクシングなどのスポーツが登場し、ヘミングウェイ(『日はまた昇る』)の影響を顕著に感じます。妊娠で落命するヒロインは『武器よさらば』を連想させます。
シュルレアリスムの影響。ジュヴナイル。青春残酷物語
慎太郎が好んだシュルレアリスムのコクトー『恐るべき子供たち』もティーンの世界を描いたグランギニョルな青春物語です。また、シュルレアリストのブルトンは既成の芸術やブルジョア社会へのカウンターとして、実際の若い犯罪者に着目するなどし、モロー(「出現」)の絵画に描かれるファム・ファタル表象に着目しました。シュルレアリスムの影響が顕著な三島由紀夫の『金閣寺』や、中上健次(『千年の愉楽』)の永山則夫への着目もこうしたモードの中にいて、グランギニョルな青春物語を展開しました。ヌーヴェルバーグのゴダール監督(慎太郎原作の映画を高く評価)もこうしたモードの中で『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』のような青春残酷物語を展開しました。
本作もそのような青春のグランギニョルな1ページを描いています。
ライバルは開高健、そして大江?
石原慎太郎は当時、同時期に同世代で活躍した開高健、大江健三郎と並び称されました。けれども、開高健はともかくとして大江と石原では才能に圧倒的な違いがあります。相手が悪すぎる。日本文学史上、また世界文学史上最大の作家の一人である大江と、中堅流行作家の慎太郎では、流石に実力に開きがありすぎます。
石原慎太郎という作家は、まあ例えるなら島田雅彦、高橋源一郎くらいの才能です。つまるところ、世に出て然るべき才能と学識、また運はあっても、作品の大半はオンタイムで廃れるような類の作品で、今読むと古びて感じられます。また似たようなジャンルでデビューした村上龍(『限りなく透明に近いブルー』)と比べても、才能として小粒です。
けれども後期の作品になると味わいのある作品も石原の小説にも出てくるのですが、その中でも『わが人生の時の時』は特に秀でています。この水準の作品が一つでも書けるなら、表現者として胸を張っていいと思います。
また慎太郎という作家の一番の強みは、悪童であっても常識や批評眼はあり、また精神的にタフであることと思います。性格的には谷崎潤一郎(『異端者の悲しみ』)のような作家と近いでしょうか。例えば『三島由紀夫の日蝕』など、三島のパーソナリティ障害的傾向を知人としての立場から的確に言い当てています。根本的に慎太郎も谷崎もポジティブな快楽主義者であるのだと思います。
心理劇としてのデザイン
本作は心理劇としてはコクトーとラディゲの作品の影響が大きく、だいぶクオリティは落ちるものの、閉鎖的な世界での三角関係を描きます。
津川竜哉と英子、それから竜哉の兄の道久の三角関係に発展し、英子は達哉の子供を妊娠、それから中絶の失敗で死に至り、このあたりはやや『肉体の悪魔』を連想します。達哉は英子の命を懸けた達哉への復讐に涙するのでした。
衝撃的な障子のシーンの元ネタ?
生殖器で障子を破るという珍妙なシーンはすでに武田泰淳「異形の者」にもあることがしられます。
ここでは、主人公が僧侶になろうと本山に籠り修行しており、童貞で大地主の倅である主人公は、捨て子同然で片足が悪く肥満で、年長の穴山の目の敵にされています。この穴山がフラストレーションをこじらせた結果、障子破りの行動に至ります。
ただ、作品のテーマや内容的には本作と「異形の者」はあまり重なるところはありません。
あと障子破りも江戸期の春画などにすでに見られる表象で、泰淳の発明ではありません。
物語世界
あらすじ
高校生・津川竜哉はバスケット部からボクシング部に転部し、ボクシングに熱中しつつも、部の仲間とタバコ、酒、ギャンブル、性に興じる自堕落な生活を送っています。
竜哉は街でナンパした少女の英子と肉体関係を結び、英子は竜哉に惹かれます。しかし竜哉は英子に嫌気がさし、兄の道久に彼女を売りつけます。それを知った英子は怒って道久に金を送り付け、3人の間で金の遣り取りが繰り返されます。
ところが英子が竜哉の子を身籠り、中絶手術を受けます。手術は失敗し英子は腹膜炎を併発して死亡します。葬式で竜哉は英子の命懸けの復讐を感じ、涙します。
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