始めに
石川淳「普賢」解説あらすじを書いていきます。
背景知識、語りの構造
フランス文学
石川淳はフランス文学の影響が顕著です。特にクローデル、ジイド、アナトール=フランスなどからの感化が大きいです。
全体的にはモダニズムに括られるような作家で幻想的な要素や形式主義的実験が特徴的です。
他にも漱石に加えて、森鴎外、永井荷風の象徴主義、ロマン主義から示唆を受けました。また上田秋成などの江戸文芸からも影響が大きいです。
語りの構造
ある事情で一家破産したわたしが語り手です。わたしは貧困の底で、古い知り合いの政治評論家・坂上青軒の主催する雑誌「政論」に関係をつないだり、評論や作品を書いたりして暮らします。
このわたしの語りは饒舌で漫然とダラダラと続き、かなり戯作文学の様式を継承しています。
この語り手の思弁や空想が作品のなかで展開されます。
タイトルの意味
中世フランスの、ジャンヌ=ダルクを讃仰する作品を作った女流詩人、クリスティヌ=ド=ピザンの伝記を書こうとする語り手のわたしですが、その周りでは、観念世界では立派なことを言うものの、現実世界では酒、博打、薬物に明け暮れて、窮乏して、堕落している頭でっかちな若者がいます。
タイトルの「普賢」とは文蔵の妹のユカリをまず指示していて、彼女は某ミッションスクールを卒業してからは非合法運動の青年と共に家出してしまうものの、密かにわたしがジャンヌ=ダルクや普賢菩薩のように崇高な存在として恋い慕っていた存在です。
しかし現在ではもはやユカリに昔日の面影はなく、無残にも変貌していました。逃げた先の店で綱と会い、そのベッドの上で汚物のごとくさらされながらもユカリの去った渦の中で馥郁といざなう普賢菩薩の輝きを私は見ます。
キリスト教文学
石川淳はキリスト教文学の影響が強いですが、罪深いものにこそ神の恩寵があるという神学的な発想が本作も含めて見て取れます。
まず新約聖書『ローマの信徒への手紙』にある使徒パウロの言葉に「罪の増したところには、恵みはなおいっそうあふれました。」(5章20節)があります。神の恩寵は、人間の努力や道徳的完成への報酬ではなく、自力ではどうしようもない惨めな状態にある者に、神の方から一方的に注がれるものである、という考え方がみえます。この無条件の愛を際立たせるために、逆説的に「罪」が必要とされるロジックが生まれました。
中世の神学者アウグスティヌスは、自身の放蕩生活からの回心を綴った『告白』において、このパラドックスを深め、アダムが罪を犯さなければ、キリストという救い主はこの世に現れなかった。ゆえに、その罪は(結果的に救いをもたらしたという意味で)幸いであるという考え方を広めました。この思想が、完璧な善人よりも、自らの醜さを知る罪人の方が神に近いという文学的モチーフの土台になりました。近い発想はモーリヤックやグリーン、ロートの作品にも見て取れます。
物語世界
あらすじ
ある事情で一家破産したわたしは貧困の底で、古い知り合いの政治評論家・坂上青軒の主催する雑誌「政論」に関係をつないだり、評論や作品を書いたりして暮らします。
中世フランスの、ジャンヌ=ダルクを讃仰する作品を作った女流詩人、クリスティヌ=ド=ピザンの伝記を書こうとするわたしは、垂井茂市の自宅に一晩泊まりました。
わたしはひょんなことから、酒びたりの庵文蔵、モルヒネ中毒の妻のお組を持つ鳥屋の主である田部彦介、肋膜の妻の久子を持ち骨董商の寺尾甚作、アパートの女主の葛原安子等の俗物達と知り合います。
3年振りに会った文蔵はやつれており、彼の妹のユカリは非合法運動をする青年と恋仲になり家出してします。お組の母は急に電車で轢死し、呆気なく火葬されます。甚作は新たにお綱という女を作るものの、今度はそのお綱を茂市に取られます。安子は青軒に山ノ井飛行機製作所の鉄屑払い下げ入札の件で斡旋を求めに行くものの、上手くいきません。田部の妻であるお組は麻薬摂取の罪で留置所に入り、出所後に夫に抱擁を求めて手を伸ばす最中に亡くなります。
弔いを済ませて帰るとユカリの件で文蔵が警察に連行されます。彼女からの手紙では新宿の駅で待ち合わせているらしいので警察から逃がすため駅に向うものの、そこで見たユカリに昔日の面影はなく無残にも変貌していました。自分も逃げた先の店でまた綱と会い、そのベッドの上で汚物のごとくさらされながらもユカリの去った渦の中で馥郁といざなう普賢菩薩の輝きを見ます。
その翌日、仮宿に帰ると、安子が梯子段を駆け降りて文蔵の異変を知らせ、文蔵の部屋では畳の上に骸骨のぶっちがえの付いたモルヒネの小瓶が転がっていたのでした。




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