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石川淳「焼跡のイエス」解説あらすじ

石川淳
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始めに

 石川淳「焼跡のイエス」解説あらすじを書いていきます。

背景知識、語りの構造

フランス文学

 石川淳はフランス文学の影響が顕著です。特にクローデル、ジイド、アナトール=フランスなどからの感化が大きいです。

 全体的にはモダニズムに括られるような作家で幻想的な要素や形式主義的実験が特徴的です。

 他にも漱石に加えて、森鴎外、永井荷風の象徴主義、ロマン主義から示唆を受けました。また上田秋成などの江戸文芸からも影響が大きいです。

キリスト教文学

 石川淳はキリスト教文学の影響が強いですが、罪深いものにこそ神の恩寵があるという神学的な発想が本作も含めて見て取れます。

 まず新約聖書『ローマの信徒への手紙』にある使徒パウロの言葉に「罪の増したところには、恵みはなおいっそうあふれました。」(5章20節)があります。神の恩寵は、人間の努力や道徳的完成への報酬ではなく、自力ではどうしようもない惨めな状態にある者に、神の方から一方的に注がれるものである、という考え方がみえます。この無条件の愛を際立たせるために、逆説的に「罪」が必要とされるロジックが生まれました。

 中世の神学者アウグスティヌスは、自身の放蕩生活からの回心を綴った『告白』において、このパラドックスを深め、アダムが罪を犯さなければ、キリストという救い主はこの世に現れなかった。ゆえに、その罪は(結果的に救いをもたらしたという意味で)幸いであるという考え方を広めました。この思想が、完璧な善人よりも、自らの醜さを知る罪人の方が神に近いという文学的モチーフの土台になりました。近い発想はモーリヤックやグリーン、ロートの作品にも見て取れます。

タイトルの意味

 昭和21年7月の晦日、終戦からほぼ一年のころ。街頭ではさまざまな商いがありますが、市場閉鎖の官のおふれは無視されます。

 語り手の私は白米のおにぎりを売る若い女を目にし、そこに不潔さと悪臭を漂わせた一人の少年が現れます。少年はそこのおにぎりに食いつき、その女の足のうえに抱きつきます。この少年はわたしの抱えた風呂敷包みをも奪おうとして襲います。そのときわたしが彼の中に見出したのは苦患にみちたナザレのイエスの生きた顔でした。

 このように人類の罪の象徴ような戦後の焼け跡に現れた少年はそこで過ちを犯すものの、その姿のうちに語り手はイエス=キリストを見出すのでした。

物語世界

あらすじ

 昭和21年7月の晦日、終戦からほぼ一年。街頭ではさまざまな商いがあり、市場閉鎖の官のおふれは無視されます。


 白米のおにぎりを売る若い女を「わたし」は目にします。わたしが惹きつけられたのはその肉感的な雰囲気を発散させている女そのものでした。

 そこに現われるのが不潔さと悪臭を漂わせた一人の少年です。彼はそこのおにぎりに食いつき、その女の足のうえに抱きつきます。それを振りほどこうとする女と少年は揉み合ったまま、わたしにぶつかります。
 

 そのとき、わたしは女の方に抱きつき、このとき女にわたしが睨まれたのは、ほんの一瞬でもわたしの脳裏をかすめた甘美な思いを彼女が察知したからでした。


 この少年はわたしの抱えた風呂敷包みをも奪おうとして襲います。そのときわたしが彼の中に見出したのは苦患にみちたナザレのイエスの生きた顔でした。わたしからコッペパンと財布を盗んだ少年ですが、その行為そのものがやむにやまれぬ行為であったとわたしは思います。  

 その翌日、市場は完全に閉鎖されます。やっと官のおふれが効力を発したのでした。わたしに残ったのは、少年が噛みついた手足の傷だけで、あのとき垣間見たイエスの姿そのものが夢の中の異象としてだけ記憶されています。


 8月1日を境として、上野のガード下にも秩序がもたらされ、戦後日本の復興はこれから本格的に始まろうとしているのでした。

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