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梶井『のんきな患者』解説あらすじ

梶井基次郎
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はじめに

 梶井『のんきな患者』解説あらすじを書いていきます。

背景知識、語りの構造

モダニズム

 梶井基次郎は傾向としてはモダニズムの作家です。

 刺激を受けた作家は多いですが、特に漱石、志賀直哉、佐藤春夫、西田幾多郎、ドストエフスキーなどからは大きな示唆を受けました。

 漱石は『文学論』などで刺激を与えました。またそのプラグマティズムや、一人称視点のリアリズムなども影響しました。

 志賀直哉は『城の崎にて』などの心境小説としてのスタイルから、しばしば影響と類似性が指摘されます。

 佐藤春夫の諸作からの影響は大きく、「『風流』論」などから感覚され、松尾芭蕉などに着目しました。自然と調和してそのなかで創作しようとする姿勢、対象の観察モデルを学んだと言えます。

 西田幾多郎の『善の研究』からも、一人称的視点のリアリズム、対象の観察モデルの示唆を受けました。

 ドストエフスキーの心理リアリズムからも影響を受けました。

 ほかに森鷗外、谷崎潤一郎、有島武郎、島崎藤村、武者小路実篤、上田敏、高浜虚子や、同時代のモダニスト川端康成、横光利一の刺激を受けました。

印象派の刺激

 また絵画からも大きな影響を受けたのが梶井基次郎で、セザンヌ、アングル、ゴッホの絵画を好み、特にセザンヌとゴッホの印象派の影響が、本作との関連において重要です。

 印象派は、19世紀後半のフランスにはじまる運動で、クロード=モネ『印象・日の出』に由来する名前です。印象派の絵画の特徴としては、筆のストローク、戸外制作、空間と時間による光の変化の描写、対象の動きや質感を捉えようとするスタイルなどがあります。印象派は戸外で制作し、光の変化や質感を細やかに描きました。また混色と原色の絵の具で短い断続的なストロークを並べて、色によって動きを描きました。 

 印象主義は、伝統的な絵画におけるリアリズムにたいするアンチテーゼとして展開されました。ただ単に遠近法のコードに従って視覚的情報を絵画的平面の上に捉えようとするのではなくて、対象の質感や顕われなどの微妙なニュアンスを、感じたように、感じられるように描くというアプローチが展開されていきました。

 こうした認識論的な視点を美学的再現に反映するアプローチは、ルネサンスの遠近法などからしてそうですが、やがてピカソ(『ゲルニカ』)に代表されるキュビスム絵画においてさらなる発展を見せていきます。

背景

 『のんきな患者』の発表から約4年半前、伊豆湯ヶ島での転地療養生活から東京に戻っていた梶井基次郎は、1928年8月頃から、結核の悪化により大阪の実家で静養することを決めます。基次郎は9月3日に東京を離れ、大阪市住吉区阿倍野町99番地の家に帰郷したのでした。

 このころ、阿倍野の貧しい人たちの暮らしや病による死、母の入院などを経験し、それが作品の背景になっています。

語りの構造

 本作は梶井基次郎の遺作です。モダニズムの文脈の色濃い梶井ですが、本作はそのころ触れた藤村、ゴーリキー、西鶴、マルクスの影響もあって、異質物語世界の、いわゆる三人称の語り手を設定している、伝統的なリアリズム小説的なスタイルによってものされています。

 全体的にモダニズム的な形式的実験のテイストがやや希薄です。

物語世界

あらすじ

 肺病(結核)を患い、病床生活を送る吉田は、寒い季節の到来を感じた翌日から高熱と咳に悩みます。発作で数日後にはすっかり痩せ、腹の筋肉も咳を出す力もなくなります。心臓もだいぶ弱ってしまいます。

 吉田は不眠で身体をしゃちほこばらせ、呼吸困難になりつつ、緊急事態に備え誰かに寝ずの番をしてもらいたかったものの、老いた母親にそれを頼むのも躊躇します。自分の不安に気づかず、看護婦を付けない母親を歯がゆく思い、胸の中の苦痛を相手に叩きつけたい癇癪を吉田は覚えるものの、「不安や、不安や」と弱々しく訴えて辛抱します。

ささいな刺激も発作の動因になるので吉田は、いつも来る猫が部屋に入って来ないよう工夫していたものの、ある晩、外の夜露で濡れた猫が1匹侵入し懐に入ろうとします。隣の部屋で風邪で寝込んでいる母親を起すこともできず、不安と憤怒に襲われた吉田は布団の上に行った猫を掴まえ部屋の隅に叩きつけ、しばらく呼吸困難になります。

 2週間の後、なんとか睡眠がとれるほど症状が落ちつき、煙草を吸いたくなったり、手鏡で庭の風景を反射させ望遠鏡で眺めたりします。ある日には、敷地の隣の櫟の木に渡り鳥が来て、母が立ち上がり庭の隅の方を眺めてその様子を伝え、その都度、吉田が「そんなら鵯ですやろうかい」「椋鳥ですやろうかい」と合せてやります。

 或る日、大阪の実家でラジオ屋をやっている末弟が見舞いに来ます。弟が帰った後、母は弟から聞いた実家の近所の荒物屋の娘が死んだ話をします。その娘も肺病でした。吉田は、やはり同病人の死の報せは衝撃で、その娘を親身に看病していた聾の母親のを思い出します。吉田の母は、2か月前に娘の母親の方が先に脳溢血で死んだことが影響したと思っているようでした。

 吉田は約2年前に病状が重くなり、東京での学生生活の延長暮らしから大阪の実家に帰ったものこ、肺病患者の訃報や、迷信の療法で病と闘う人々の現状の暗さを知ります。吉田自身も、肺病で首吊り自殺した男の、その高価な縄を飲んでみないかと塗師から勧められたこともありました。学生時代に帰省した当時には、母親が知り合いから貰った肺病で死んだ人の脳味噌の黒焼きを飲んでみないかと言われ閉口したのでした。

母親が突然病気で入院して吉田が付添の看病をしていた時も、吉田が病院の食堂で食後に少し咳をすると、見知らぬ1人の付添婦が寄って来て、鼠の黒焼きが肺病や心臓の動悸に効くと勧められたのでした。また病院近くの市場で母の入用な物を買った帰りも、吉田の肺が悪いのを見抜いた天理教信者の女の執拗な勧誘を受けました。

 自分の顔色が病人の面貌なのかと気に病んだ吉田は、天理教勧誘のことを母に言うと、母も日頃から公設市場などでよく声をかけられていたらしく、世間の誰もが遭遇する日常茶飯事のことなのでした。

 統計によれば、肺結核で死んだ人間の90パーセント以上は極貧者で、上流階級の人間は10パーセント以下でした。望み得る治療や医薬などの手当を受けられる環境の人間が、100人中1人以下だということでした。吉田はこれまで、この統計と自分の見聞を当てはめて考えることがあったものの、荒物屋の娘の死に方や、ここ数週間の自身の苦しみで、またそれを考えます。

 統計中の90何人は老若男女さまざまで、その中には病の苦しみに堪える精神力の強い人間もあれば、堪えられない人間も多くいるにちがいなく、しかし病気というものは、それに堪えられない者を除外してくれません。どんな豪傑でも弱虫でも皆同列に否応なしに最後の死のゴールまで引き摺っていく、という容赦ない現実があるのでした。

参考文献

・大谷 晃一 (著)『評伝梶井基次郎』

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