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安吾『青鬼の褌を洗う女』解説あらすじ

坂口安吾
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はじめに

 安吾『青鬼の褌を洗う女』解説あらすじを書いていきます。

語りの構造、背景知識

ロマン主義、象徴主義

 坂口安吾は、「風博士」を牧野信一に褒められ、島崎藤村と宇野浩二などにも認められ、作家として知られるようになりました。

 その作家性は広くロマン主義、古典主義、象徴主義から影響を受けていて、作家単位では谷崎潤一郎、芥川龍之介、石川啄木、島崎藤村、北原白秋、佐藤春夫、正宗白鳥、葛西善蔵、有島武郎、宇野浩二、牧野信一、バルザック、チェーホフ、ポー、ボードレール、モリエール、ヴォルテール、ボーマルシェなどを好み影響されています。

タイトルの意味

 タイトルは、語り手の私が考える、人生についてのあり方を象徴するものです。

 オメカケだった「母」は、遊ぶことが好きで貧乏がきらいな娘の「私」には、窮屈な女房づとめなどできないだろうと、自分と同じ道を勧め、結局私は久須美という冴えない専務の妾になります。

 私は久須美との関係の中、久須美が自分の浮気を許すのは、孤独を受け入れてるからであり、また逃げられるより逃がすほうがいいからであると悟ります。そして「私」は「最愛の女」という観念を割り当てられた、ていのいいオモチャの一つであることをも自覚しています。

 「私」は刹那的な関係のなかで内観を深め、自分は将来野垂れ死にするだろうと考え、国民学校の避難所の避難民が赤鬼青鬼のようにごちゃごちゃしているのを思い出し、どうせ野垂れ死ぬならあそこで死にたいと思います。青鬼赤鬼でも化け物でも、男でさえあれば精いっぱい媚びて、媚びながら死にたいのでした。

 妄想のなかで、「私」は谷川で青鬼の虎の皮の褌を洗っていて、それを干すのを忘れて眠ってしまいます。青鬼が「私」をゆさぶり起こすと、「私」はにっこりして青鬼に腕を差し出すのでした。

 このように、私は久須美の利他性に潜む孤独なエゴイズムを見抜き共鳴し、私も孤独なエゴイストとして、利他的な振る舞いを尽くそうとするのでした。

物語世界

あらすじ

 オメカケだった「母」は、遊ぶことが好きで貧乏がきらいな娘の「私」には、窮屈な女房づとめなどできないだろうと、自分と同じ道を勧めます。「私」自身、そうした母の束縛は鬱陶しく思います。

 やがて戦争が始まり、オメカケは国賊という時世となったものの、「私」は徴用された会社の専務久須美に引き取られます。久須美は当時56歳、背丈が6尺あって針金のような見た目で、獅子鼻でドングリ眼の醜男です。

 終戦後、久須美は「私」に家をもたせ可愛がってくれますが、「私」の本性も見抜き、浮気するならばバレないようにしてくれと頼みます。

 久須美の魂は孤独だと、「私」は思います。最愛の人の幸せのためならならば自分は孤独でもいい、もともと人間はそんなものだと考えているのです。しかし彼が身を引こうと考える理由はもう一つあるとも推測します。「私」が自身の意志で逃げることを恐れ、彼の意志で逃がした方がいと思っているのです。

 彼の観念の生活の中で、「私」は「最愛の女」という観念を割り当てられた、ていのいいオモチャの一つであることを自覚していました。

 「私」は将来野垂れ死にするだろうと考え、あの国民学校の避難所の避難民が赤鬼青鬼のようにごちゃごちゃしているのを思い出し、どうせ野垂れ死ぬならあそこで死にたいと思います。深夜にひとり死ぬのは、「私」には耐えられません。青鬼赤鬼でも化け物でも、男でさえあれば精いっぱい媚びて、媚びながら死にたいのでした。

 まどろむ久須美にちょっかいをかけながら「私」は妄想します。「私」は谷川で青鬼の虎の皮の褌を洗っていて、それを干すのを忘れて眠ってしまいます。青鬼が「私」をゆさぶり起こすと、「私」はにっこりして青鬼に腕を差し出すのでした。

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