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安吾『二流の人』解説あらすじ

坂口安吾
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はじめに

 安吾『二流の人』解説あらすじを書いていきます。

背景知識、語りの構造

ロマン主義、象徴主義

 坂口安吾は、「風博士」を牧野信一に褒められ、島崎藤村と宇野浩二などにも認められ、作家として知られるようになりました。

 その作家性は広くロマン主義、古典主義、象徴主義から影響を受けていて、作家単位では谷崎潤一郎、芥川龍之介、石川啄木、島崎藤村、北原白秋、佐藤春夫、正宗白鳥、葛西善蔵、有島武郎、宇野浩二、牧野信一、バルザック、チェーホフ、ポー、ボードレール、モリエール、ヴォルテール、ボーマルシェなどを好み影響されています。

スタイル

 全体的に講談や戯作的なスタイルの中で物語が展開されていきます。このあたりは、ロマン主義的なバックグラウンドに由来します。

 戯作とは、江戸時代後期に町人文化の中で発達した通俗的な小説群の総称で、洒落本、黄表紙、合巻、滑稽本、人情本などが含まれます。硯友社の作家が、この戯作文脈を継承し、そのモードは近代文学のなかに連綿と続きます。

タイトルの意味

 豊臣秀吉、徳川家康、石田三成ら、自然に天下を望む自分の姿を見出すまでは野望を持たず、自己を突き放して自己の創造の発見を賭けた「芸術家」としての天下人と、戦略にたけた野心児であったものの、どさくさに紛れて天下を望む「二流の人」として人生を終えた黒田如水とが対比的に描かれます。

 天才軍師でありながら、器は天下人たり得ない存在として黒田如水を描き、秀吉、三成、家康と対比的に描いています。戦国の動乱のなか、ドサクサに天下を夢見るものの、それは芸術家というよりも現実的な博徒でしかなく、そんな如水の生涯が描かれていきます。

物語世界

あらすじ

 黒田如水(官兵衛)は中国の小豪族・小寺政職の家老をしていたものの、小寺氏は、織田と毛利の両雄にはさます。小寺家の大勢は毛利に就くことを自然としていたものの、官兵衛は織田信長の天下の先行きを見抜き、主人を説き伏せ、即座に自ら岐阜に赴き、木下藤吉郎(羽柴秀吉)を通して織田信長に謁見、小寺家が信長の中国征伐の先鋒を買って出ます。信長大軍に出陣を乞い願い、信長の御意にかないます。

 しかし、秀吉が兵を率いて中国に来ると、小寺政職は変心し、毛利に就きます。ここで官兵衛は父(黒田職隆)を付けた一族郎党を秀吉の陣に送り約束を守り、自分は単身小寺の籠城(有岡城)に戻り、臣節を全うします。裏切り者として土牢に入れられたものの、一刀両断を免がれます。

 官兵衛はこの時の暗黒の入牢中にカサ頭と、ビッコになります。牢の中から助け出された官兵衛は、秀吉の帷幕に加わり軍議に献策したものの、本能寺の変が起った際、毛利と和睦して中国大返しを成功させます。しかし豊臣秀吉が終生最も怖れた人物は徳川家康ですが、その次に側近の官兵衛を怖れていました。

 中国征伐、山崎合戦、四国征伐、抜群の偉功があった官兵衛だが、秀吉から貰った恩賞はたった3万石でした。官兵衛同様、秀吉から故意に冷遇されていた親友・竹中半兵衛は、秀吉の敵意を怖れて引退します。九州征伐でも官兵衛は戦功の割に不遇でした。ある日官兵衛は、秀吉が近臣を集めて「俺の死後に天下をとる奴は官兵衛だ」と言っていた話を山名禅高から聞き、引退を決意します。秀吉はすぐには許さなかったものの、官兵衛は益々の御奉公を約束し、家督を倅長政に譲り、「黒田如水」という隠居になります。官兵衛44歳、天正17年、小田原攻めの前年でした。

 小田原の北条氏は東国随一の豪族だったものの、すでに早雲の遺風はありません。やがて北条が、旧領の沼田8万石を還してくれれば朝礼する、と言ってきたので、真田昌幸に因果を含めて沼田城を還させたものの、北条は城を貰いながら上洛しません。ここに我慢しかねて北条征伐となりました。

 秀吉から軍略の話をきり出された如水は、「先ず家康と信雄を小田原へ先発させ、先発の仲間に前田、上杉などの家康の煙たいところを御指名なさるのが一策でござろう」と進言し、それに秀吉も同意します。

 しかし早春始めた包囲陣に、真夏が来てもまだ北条は落ちません。石田三成、羽柴雄利の降伏勧告も徒労に終り、浮田秀家が北条十郎氏房と和睦に動いても氏政父子が受けつけません。北条家随一の重臣松田憲秀と長男新六郎が主家への裏切りの心を固め、秀吉方の軍兵を城内へ引入れる手筈をたてたものの、松田憲秀の次男で、北条氏直の小姓をしていた左馬助が、父兄の陰謀を主人に訴え、陰謀は不意になります。

 何か工夫をめぐらせねばならぬ秀吉は夜中に隠居の如水を召し寄せます。如水は、和談の使者に北条家と縁のある徳川殿を煩わす一手でござろうと進言し、翌日、徳川家康の陣屋へでかけます。

 天正18年の真夏の日ざかり、家康と如水が膝を突き合わせ、直接顔を合せたのはこの日が初でした。如水は、家康に親睦すれば、再び天下は面白く廻り出してくる時期があるかもしれぬと、秀吉の前には隠居したものの、また人生蒔き直しと思います。

 北条家への和談の使者の話は断られるものの、如水は何食わぬ顔で秀吉の前に立戻り、自ら北条との和談の大役になります。如水の和談の使者口上に心が動いた北条氏政は、家臣一同の助命を乞う、無条件降伏を決意します。

 ところが降伏開城に先立ち、裏切り者の松田憲秀をひきだして首をはねたことが、不服従の表現と秀吉に認められます。秀吉は誓約を無視して領地を全部没収、氏政氏照に死を命じ、北条氏を断絶させます。如水は顔をつぶされます。

 如水は秀吉から、あの小僧め(氏直に父兄の陰謀を密告した左馬助)の首をはねてここへ持て、と言われた時、秀吉から厚遇を受けていた新六郎の方の首を、はねて来ます。

 「なぜ殺した!」と怒る秀吉に、この新六郎めは父と謀り主家を売った裏切者ゆえ、かん違いを致した、ととぼけます。秀吉は怒るものの、追求はしません。

 織田信長晩年の夢に感化されていた秀吉は、唐入(朝鮮・明遠征)の野望を抱いていました。秀吉は、対馬の領主宗義調、宗義智らが掛け合えば、朝鮮は元々日本の領地だから一睨みで、帰順朝貢するものだと思い、朝鮮を道案内にし、明征伐の大軍を送ろうとします。

 しかし朝鮮は明国に帰属し、足利義満が国辱的な外交を行い、日本の威信が失墜していたため、朝鮮に朝貢の意志はありません。小西行長と宗義智は、朝鮮使節が交隣通信使にすぎぬことは伝えず、朝鮮側と屈辱的な折衝を重ねていたものの、堪忍袋の緒が切れて、日本軍は京城を占領し、朝鮮王は逃亡します。

 行長は、明との和平交渉にとりかかるため直に密使を朝鮮軍の本営に送り、明との和平を斡旋せよと、朝鮮軍にきりだします。朝鮮軍は、返事の代わりに逆襲したものの、坡州から援兵の日本軍が駈けつけて撃退されます。

 明の大軍が近づき、軍監(参謀)として唐入していた黒田如水は、京城を拠点に要所に城を築く要塞戦法を主張するものの、小西行長は一挙大明進攻の先制攻撃を主張し、他の諸将も行長の平壌前進を認めます。如水はふてくされ、日本へ帰国します。

 結果は如水の予想通り、延びすぎた戦線、統一を欠く陣構により全軍敗退します。しかし小早川隆景、立花宗茂、毛利秀包の戦功で立直り、碧蹄館に勝ちます。しかし明軍も立ち直り、周到な陣を構えます。

 秀吉も自ら渡韓し三軍の指揮を決意するものの、家康、利家、氏郷ら大名は秀吉を引き留めます。遠征は根底的に無計画、無方針で、石田三成も淀君を介して秀吉を思いとどまらせようとします。三成が嫌いであった戦争マニアの如水はそれに激昂し、浅野弾正とともに再び渡海します。

 明軍も相手の戦力を知り、いずれ日本も落ち目になるだろう、その時叩きつければよいと慎重布陣、両軍相対峙し、戦局停頓し和議交渉となります。明の沈惟敬は朝鮮軍の情報から、日本は明との貿易復活を欲し、侵略は本意でないと判断します。宋応昌や李如松は自国に有利な条件ばかり要求し、行長を騙して誘いだし、突然包囲し再び戦乱となります。

 その後の戦乱で食糧難となった日本軍は一時撤退し、再び明との和議交渉となり、沈惟敬と行長が共謀して秀吉の降表を偽造し、秀吉が降伏をして明王の臣下となり、日本国王になるといった意味にします。これに秀吉が激昂し、再征の役となります。

 失敗の様相を帯びてきた朝鮮遠征、50歳過ぎて初めて出来た幼子鶴松の死、新たに生まれた秀頼への溺愛、養子秀次との確執などで、秀吉の晩年は凋落の影がさします。

 秀吉は秀次への憎悪と嫉妬を深くし、父への謀反の疑いとして高野山で切腹を命じ、秀次の妾や子供ら30余名も処刑します。しかしさらに大きな家康の影が秀吉の行く手に立ちこめていました。

 秀吉は病床に伏し、五大老、五奉行に秀頼の忠誠の誓紙を血判で書かせ、死にます。


 秀吉の死去と同時に戦争を待ち構えていたのが、如水と直江山城守でした。彼の論理は明快で、徳川家康は怪しからぬという結論でした。

 家康は秀吉の死を知ると、天下の異変に備え、勢力拡大をはかります。前田利家は怒り、家康と戦う覚悟を決め、秀吉の遺言を受けて秀頼の天下安穏を守ろうとするものの、朝鮮遠征の消耗で、豊臣家の世襲支配を可能にする国内整備が完備されず、不安のまま利家は亡くなります。

 その夜、黒田長政、加藤清正ら、石田三成に遺恨を含む武将たちが三成を襲撃、三成は浮田秀家に屋敷に隠れ、家康のふところへ逃げます。三成は裸一貫、佐和山城へ引退します。その三成に直江山城守が密使を送り、挙兵の手筈をささやきます。家康は通俗小説に命を賭けますが、三成の苦心孤高の芸術性は家康のその太々しい通俗性に敗北を感じます。

 如水も動き出します。しかし義理と野心を一身に負い、死を賭けて単身小寺の城中に乗りこんだ時は詩人だったものの、今は如水にその魂はなく、もはや賭博師で、芸術家ではありませんでした。

 如水は家康に寄せる友情を義理厚く示したものの、家康はその友愛を、自我みずからを愛する影にすぎないことを見抜きます。如水は家康に日夜の献策忠言します。三成を憎みつつも家康を信用しない加藤清正、福島正則らを勧誘し加担せしめたのも如水でした。

 関ヶ原の役となり、豊臣の血統の金吾中納言秀秋は三成の招集に応じて出陣したものの、如水は小倉に走り、熱弁で秀秋の三成への裏切りの楽屋裏を仕上げました。その後如水は九州中津へ引き上げ、その地で関ヶ原合戦の準備の報を聞くと、2城の老臣らに総出仕を命じます。

 如水は秘かに、家康と三成が百日戦うと見越して、その間に九州・中国を一なめにし、ふるさと播磨で留まり、切り従えた総兵力を指揮して、家康と天下分け目の決戦をやるつもりでした。如水は、天下への30年見果てぬ夢、見飽きぬ夢にただ他愛もなく興奮し、領内の少年、隠居、浪人、町人百姓職人まで城の庭に集めて金銀を与えて準備します。如水は大友義統を生け捕りにして豊後を平定したものの、その同じ日に関ヶ原の戦いは一日で片づきます。如水の野望は泡と消え、落胆したが何食わぬ顔です。

 家康の懐刀藤堂高虎へ書簡を送り、九州の三成党を攻め亡ぼすから、その分は自分の領地とし、恩賞は倅長政と別々によろしく取りなしをたのむと綴るのでした。

 独力九州の三成党を切り従えた如水の意外な大活躍は、人々に賞讃を巻き起こしたものの、如水自身は天下の野心の悪夢から立ち返ます。もう一人冷やかに眺めていたのは家康で、如水には一文の沙汰もありません。しかし家康はそつなく如水を敬々しく大坂に迎え、感謝として朝廷に申上げて位を薦め、上方に領地、今後は特別天下の政治に御指南を頼みますとお世辞を言います。如水は敬々しく辞退し、すでに年老い、又生来の多病でこの先の御役に立たない私です、拝辞します。その淡泊に秀忠が驚き、嘆声をもらして群臣に訓え、それが徳川の如水に与えた奇妙な恩賞となります。

 如水は内心、家康めにしてやられたわい、かねて覚悟の上のこと、バクチが外れたときは仕方がないさ、とうそぶきます。

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