始めに
菊池寛『恩讐の彼方へ』解説あらすじを書いていきます。
背景知識、語りの構造
新思潮派
菊池寛は、新思潮で活躍した新思潮派の作家です。新思潮は1907年小山内薫が創刊したもののし、その後帝大生により復活され、東京大学系の同人誌として継承されます。そして第3次第4次新思潮の同人菊池寛、芥川龍之介、久米正雄、松岡譲らを新思潮派といいます。
一貫した理念がグループに共有されていたわけではないものの、ワイルド、ショー、シングなどのイギリスやアイルランドの演劇はこのグループに広く共有されました。
菊池寛の作品も、ワイルドやショーにも見える逆説やシニズムを特徴とします。
モデル
モデルは禅海という僧侶です。
前海は、両親が亡くなった事から出家し、諸国を行脚、得度して禅海と称し、豊前国耶馬渓の青の洞門を開削しました。
作中では主である旗本中川三郎兵衛を殺害してその妾と出奔、木曽鳥居峠で茶屋経営の裏で強盗を働いていたものの、これまでのことの罪悪感から出家し、罪滅ぼしのために青の洞門の開削を始め、仇討ちをはかる三郎兵衛の息子と共に開削し、最終的に二人で和解する、という作品のプロットは菊池の創作です。
物語世界
あらすじ
越後国柏崎生まれの市九郎は、主人で浅草田原町の旗本、中川三郎兵衛の愛妾お弓と密通し、それが三郎兵衛に知られ、手討ちされそうになります。とっさに反撃した市九郎は三郎兵衛を斬り、主君殺しの罪を犯します。市九郎は、お弓にそそのかされて出奔し、中川家は家事不取締に付き、お家断絶と沙汰されます。
東山道の鳥居峠で茶屋を開いた市九郎とお弓は、茶屋の夫婦を装う傍ら、人斬り強盗を生業として生活していました。
江戸出奔から3年目の春、これまでの罪に苦悩し、市九郎はお弓の許を離れて、美濃国大垣在の真言宗美濃僧録の寺である浄願寺で、明遍大徳の慈悲により出家し、法名を了海としました。そして滅罪のため、全国行脚の旅に出ます。
1724年8月、豊前国に入った了海は、宇佐八幡宮に参拝し、山国川沿いにある耆闍崛山羅漢寺を目指します。樋田郷に入った了海は、難所の鎖渡しで事故死した馬子に遭遇します。そこで難所の岩場を掘削して、事故死する者を救おうという誓いを立てます。
周囲は了海を狂癡と見なして見向きもしませんでしたが、多年にわたると、何度か石工を雇って力を合わせようとします。しかし難工事のため長続きすることはなく、すぐ了海一人になってしまいます。
18年目の終りになり、中津藩の郡奉行の計らいにより、石工を雇って、掘削作業を進められるようになります。
三郎兵衛の子、中川実之助は、父の死んだ時は3歳でしたが親類のもとで育てられ、やがて父の非業の死の顛末を知ります。復讐のために実之助は、柳生道場に入門し、19歳で免許皆伝、仇討ちを目指し27歳まで諸国を遍歴し、九州に入って中津城下へ来ました。そこで、市九郎らしき了海という僧が、山国川の難所で工事の最中であることを知り、彼を訪ねます。
了海は、親の仇を名乗る実之助の前で、素直に斬られようとするものの、石工たちが止めに入ったため、石工の頭領の計らいで、洞門の開通まで仇討ちは延期してもらいます。実之助は、復讐を早めるため、石工たちに混じって掘削に協力します。
了海が掘り始めてから21年目、実之助が来て1年6ヵ月、1746年9月10日の夜九つ近く、洞門は開通します。
了海は往生極楽を確信し、実之助に自分を討たせようとするものの、市九郎の態度に心打たれた実之助は仇討ちをやめ、了海と手を取り合い感激の涙を流します。
参考文献
・松本 清張 (著)『形影: 菊池寛と佐佐木茂索』




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