始めに
ナギーブ・マフフーズ『ミダック横町』解説あらすじを書いていきます。
背景知識、語りの構造
マフフーズの作家性
マフフーズは独学で西洋文学を深く読み込み、その技法をアラビア語の世界に移植しました。マフフーズのカイロ三部作に代表される写実主義時代には、ゾラやフローベールの影響が色濃く見られます。都市の細部を描写し、社会の構造を解剖する手法は彼らから学びました。また社会の底辺に生きる人々への眼差しや、都市を一つの有機体として捉える視点においてディケンズと共通点があります。
中期の『泥棒と犬』などでは、意識の流れや内面的な独白といったモダニズムの手法を取り入れています。これはプルーストやジョイス、あるいはヴァージニア・ウルフらの影響をマフフーズ流に昇華したものです。また晩年のマフフーズが書いた寓意的・幻想的な短編や『ゲベラウィの子供たち』には、カフカ的な不条理や形而上学的な不安が影を落としています。
マフフーズ以前のアラブ文学は詩が主流であり、散文小説はまだ発展途上でした。サラーマ=ムーサはマフフーズの直接的な師とも言える人物です。彼から科学的思考、社会主義、そして現代人として生きるための進歩的な思想を学びました。タハ=フセインは近代アラブ知性主義の父で、伝統的なイスラーム教育と西洋的批判精神を融合させる姿勢において、マフフーズに大きな指針を与えました。タウフィーク=アル=ハキームはエジプト近代演劇・小説の先駆者で、マフフーズはハキームが切り拓いた現代的なアラビア語散文の可能性を引き継ぎ、より洗練された小説言語へと磨き上げました。
横丁の世界
横丁は数百年変わらない伝統的な生活空間として描かれますが、第二次世界大戦という外部要因が、その平穏を容赦なく破壊します。横丁は一種の子宮のような閉鎖空間であり、外の世界の変化から切り離されています。伝統的な価値観としての宗教や家族が、戦争がもたらした金銭欲や消費文化によって変質していく過程が冷徹に描かれます。
登場人物の多くが、この貧しく狭い横丁からの脱出を試みますが、その結末は多くの場合悲劇的です。ヒロインのハムミーダは、美貌を武器に貧困からの脱出を渇望しますが、最終的には売春という形で商品へと転落します。彼女の向上心は、伝統的な道徳観を突破するエネルギーであると同時に、自滅への引き金でもあります。彼女を愛し、金を稼ぐために戦場へ向かったアッバースの純朴さは、非情な現実に打ち砕かれます。
貧困の現実
マフフーズはこの作品で、美化されない貧困のリアルを描いています。乞食を養成するために健康な体に傷をつけるザイタという特異なキャラクターは、社会の最底辺に蠢く生命力と倫理の不在を象徴しています。また伝統的なイスラーム社会の裏側に潜む同性愛や、権力と結びついた欲望など、当時の社会タブーに深く踏み込んでいます。
物語の終盤、個々の人間が死んだり去ったりしても、横丁は何事もなかったかのように元の日常に戻っていきます。人間は入れ替わる一時的な存在であり、真の主人公はミダック横丁という空間そのものであるという、実存主義的な虚無感が漂っています。
物語世界
あらすじ
物語は、古びた横丁の住人たちの紹介から始まります。カフェの店主キルシャ、独身の金持ちサリーム、そして貧しい理髪師のアッバース。中心となるのは、横丁で最も美しく、同時に並外れた野心を持つ孤児の娘ハムミーダです。彼女は自分の美貌が、この薄汚れた横丁から抜け出す唯一の切符だと信じています。アッバースは彼女に求婚し、結婚資金を稼ぐためにイギリス軍のキャンプへと出稼ぎに向かいます。
アッバースが不在の間、ハムミーダに転機が訪れます。富豪のサリームが彼女に求婚しますが、彼は心臓発作で倒れてしまい、結婚の話は立ち消えになります。 絶望する彼女の前に、洗練された身なりの男イブラーヒーム=ファラジュが現れます。彼は贅沢な暮らしを約束し、彼女を誘惑します。 ハムミーダは家族もアッバースも捨て、夜逃げ同然で横丁を後にします。しかし、イブラーヒームの正体は女衒であり、彼女はイギリス軍兵士を相手にする高級娼婦へと仕立て上げられます。
数ヶ月後、休暇で横丁に戻ったアッバースは、ハムミーダが姿を消したことを知ります。彼は街で偶然彼女を見つけ出しますが、そこにはかつての純朴な面影はなく、西洋風の派手な服を着た娼婦としての彼女がいました。激昂したアッバースは、彼女を誘惑したイブラーヒームや彼女自身への復讐を試みます。しかし、彼は酒場にいたイギリス兵たちとの乱闘に巻き込まれ、無残に殺されてしまいます。




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